前回は、活動の転換点となった貴族院設立前後の長育をみてきました。
そこで今回は、長育の思想をわかりやすく体験できる形にした「尚武須護陸」をみてみましょう。
四将軍派との接近
前回みたように、『軍備要論』の発行を通じて、長育と著者の曾我祐準は接近します。
そのうえ、曾我が東宮(のちの大正天皇)の御教育主任を務めたこともあって、二人は旧知の間柄となりました。
この曾我は、おなじ軍人華族の谷干城・鳥尾小弥太・三浦梧楼とともに、山形有朋・大山巌ら陸軍藩閥勢力の主流派と対立する反主流派を形成していたことでも知られる人物。
この四人は前にみた華族同方会や子爵会にも参画していますので、やはり長育とは近い関係にあったとみられます。
とくに谷は、華族同方会の設立にもかかわっていたうえに、思想信条が長育と極めて近いことからみると、二人の関係は親密なものだったのではないでしょうか。
また、実弟の柳生俊久子爵は職業軍人となり、陸軍歩兵大佐となったことも、長育と陸軍を結びつけることになったと思われます。
「尚武須護陸」の発案
前にみたように長育は、「世界無比」である皇室に対して、華族は「忠愛至誠」を尽くすべきだと考えていました。
ここから次第に考えが深まった結果、「忠愛至誠」は華族から軍人、さらには国民全般へと拡大されることとなったのです。
関係の深かった軍人華族たちからの協力もあったのでしょう、長育は自身の思考をわかりやすく体現できるものとして、「尚武須護陸」を考案します。
「尚武須護陸」とは
ここで、「尚武須護陸」についてくわしい大濵徹也『「尚武須護陸」に読みとる歴史 明治の小学生が求められた世界』からみてみましょう。
大国清との戦争を目前に控えた明治26年(1893)12月、東洋堂から売り出された「尚武須護陸」は、長育が考案したものです。
この「尚武須護陸」という名には、「武をとうとび、すべからく陸を護るべし」との思いを込められていました。
この宣伝文には、東宮(のちの大正天皇)が「御愛玩一方ナラズ実ニ有益ナル双六ナリ」とうたっています。
さらに、「身ヲ立テ名ヲ揚ゲテ国家ノ干城トナリ」「真ニ家庭教育ニ有益」「修身斉家ノ一助」との宣伝文句が並んでいました。
「尚武須護陸」の遊び方
この双六は、振出しが「小学校教場の図」となっていて、徴兵から兵卒、軍曹、曹長、軍人志願、幼年生徒、士官候補生、見習士官、少尉、中尉、大尉、少佐、中佐、大佐、少将、中将、そして上がりの大将へとたどり着くのですが、途中でさまざまの関門が待ち構えており、「大将」となるのは至難の業。
クラス全員が2回しても、大将が一人も出なかったとの報告もあって(石出みどり「日本史 明治時代の子どもになって遊んでみよう!」)、まさに厳しい軍隊社会を疑似体験するものだったのです。
あがりは「靖国神社」
「尚武須護陸」とは何なのか、何を目指したものなのか、ここで再び大濵の論考をみてみましょう。
「尚武須護陸」は子供たちにとって身近な存在の双六で遊びながら、日本陸軍を疑似体験するものです。
「戦死、靖国神社に祭られる」「軍律違反での兵卒の銃殺」、「貶められて」の降格というふうに、軍隊の内部が非常にリアルに描かれていました。
この双六で遊ぶことで、当時の子どもたちは、天皇のために死んで靖国神社に祭られることこそが日本人にとって最高の栄誉であると心に刻み付けることになるのです。
長育のねらい
この「尚武須護陸」こそが長育が心に描いていた、「世界無比」である皇室に対して、国民が「忠愛至誠」を尽くす道だといえるでしょう。
そしてこの長育が描き出した国民像は、現在を生きる我々にまで影響を及ぼしているのです。
それにしても、長育はずいぶんとすごいものを作ったのだと感心させられてしまいますね。
ここまで長育の思想をわかりやすく体験できる形にした「尚武須護陸」をみてきました。
華族、軍人そして国民が、皇室のもとでどうあるべきかを考え抜いた長育の姿の一端がみえてきたように思います。
そこで次回は見方を変えて、長育の築き上げた人脈を概観してみましょう。
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