前回は、五島藩が取った悪名高い「三年奉公制」についてみてきました。
五島藩の農漁村にたいする収奪も極まった感じですが、どうして領民たちは藩の激しい収奪に耐えることができたのでしょうか。
今回は、その理由の一つ、隠れキリシタンについてみていきましょう。
五島盛運(もりゆき・1753~1809)
明和6年(1769)12月20日に藩主盛道が隠居すると、弱冠17歳の盛運が襲封します。
さっそく盛運は藩政改革に着手し、緊縮財政令、上知令、さらに殖産政策を打ち出していきました。
藩政改革の柱はもちろん税の増収ですので、大村藩からの百姓移住策をすすめるとともに、人別改めによる荒廃地の回復をめざします。
こうして領民把握を行いつつ、不正役人の摘発などを行って、綱紀の粛正もおこないました。
しかし天明2年(1782)から天明の飢饉が発生すると、逆に藩の財政は領民救済により悪化してしまいました。
そこで宇久山田茂右衛門から借金する代わりに蔵元寄合席につけるなど、商人が藩政の重要ポストに就くまでになったのです。
義倉の設立
こうして五島の農漁民の生活はどん底の様相を呈するまでになって、ついに寛政9年(1797)に五島で初めての一揆が起こりました。
この一揆は藩に強烈なインパクトを与えて、さっそく青方繁治の献策によって、寛政12年(1800)には義倉の備蓄制度をつくって凶作に備えたのです。
隠れキリシタンの来島
江戸時代の初めから、手ひどい飢饉が上方を襲ったおりには、京・摂津の流民を京都所司代に請うて五島に移住させて、土地を与えて田畑を開かせるといった移住策を行ってきました。(『海の国の記憶』)
そして前述の大村藩からの移住政策をとったのですが、どうして生活環境が厳しい五島へと移り住んだのでしょうか。
もちろん、藩が税制での優遇策をとったこともありましたが、表に出せない別の理由もあったのです。
信仰を守る
じつは、このとき五島へ移ったのは大村領外海、現在の長崎県西彼杵郡地域の百姓で、その大半が隠れキリシタンでした。
もちろん、大村領でも五島領でもキリスト教は禁教でしたので、表に出すわけにはいきません。
そこで移住者たちは、周囲と隔絶した場所を選んで村をつくったり、周囲の村々とのかかわりを避けるなどして信仰が露見することを防いだのです。
つまり、彼らは自分たちの信仰を守るために移住という手段を選んだのでした。
この人たちが密かに明治時代まで進行を守り続けて、現在も残る教会群を建立した五島のキリシタンの先祖となったのです。(第39回「五島崩れ」参照)
今回は、五島に隠れキリシタンたちが移り住んできたところをみてきました。
次回は、五島藩に風雲急を告げることになるフェートン号事件についてみてみましょう。
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