随筆家・小説家 内田百閒没日
4月20日は、昭和46年(1971)に小説家・随筆家の内田百閒が亡くなった日です。
百閒の本名は栄造で、号の「百閒」は、ふるさとの岡山の大河・旭川が増水した折に備えた緊急放水路「百間川」からとったもので、当初の「百間」を「百閒」に改めています。
夏目漱石との出会い
明治22年(1889)5月29日に岡山市で造酒屋の一人息子として生まれます。
その後、六高等学校(現在の岡山大学)に進学。
このころから句作や写生文をよくし、夏目漱石に傾倒するようになります。
明治43年(1910)第六高等学校を卒業すると東京帝国大学文科大学に入学すると、明治44年(1911)内幸町長子胃腸病院に療養中の夏目漱石を見舞い、そこで入門を認められました。
このころ、兄弟子の小宮豊隆、鈴木三重吉、森田草平、野上豊一郎、さらに漱石山房に出入りしていた芥川龍之介や久米正雄などと知り合っています。
大正3年(1914)に東京帝国大学独文科を卒業すると、夏目漱石の著作の校正や整理に従事していました。
その後、大正5年(1916)に漱石が亡くなると、創作に取り組むようになります。
いっぽう、大正7年(1918)には海軍機関学校英語学教官を務める芥川の推薦を受けて、同行でドイツ語学を教えるようになりました。
また、大正9年(1920)法政大学教授に就任し、陸軍士官学校や法政大学にドイツ語教官として勤務しながら創作に向かうことになったのです。
作家・内田百閒
そしてついに大正11年(1922)に、夢・幻想に題材をとった短編集『冥途』を刊行。
いっぽうで中野勝義からの懇願をうけて法政大学航空研究会会長に就任すると、航空部長として学生操縦による青年日本号訪欧飛行を計画し、見事実現させています。
ところが、昭和9年(1934)には兄弟子の森田草平が起こした「法政騒動」で教授を辞職、これ以降は文筆業に専念することになりました。
戦時中の昭和17年(1942)には、中里介山とともに日本文学報国会への入会を拒否しています。
戦後も、『阿房列車』シリーズや『ノラや』などの作品を発表し続けました。
昭和31年(1956)には盟友ともいえる間柄だった筝曲家・作曲家の宮城道雄が夜行急行「銀河」から転落して死去する事件が発生。
昭和46年(1971)4月20日、東京の自宅で死去、享年81歳でした。
百間文学の魅力
一風変わった自己を客観的に突き放す独特のユーモアと、風刺に富む唯美主義的な随筆に味わいを発揮しました。
それは百閒が師とした漱石への思いが晩年まで続き、百閒文学の神髄ともいわれる滑稽と悲哀、そして夢もまた漱石から受け継いで発展させたものでした。
また、随筆、小説ともその散文は他に例がなく、日本近代文学の中で特異な位置を占めています。
独自のテーマ
百閒は、それまであまりなかったテーマで随筆や作品を記していますので、これらを大まかに見てみましょう。
まずあげられるのが美食、とはいっても高級なものばかりではなく、その神髄は『御馳走帖』(1946)に集約されています。
次にあげるのが借金です。
子どものころ、実家が没落したこともあって、苦労つづきの人生は、その多くの期間が借金生活で、借金取りがたびたび作品に登場していました。
それは、『大貧帳』(1941)のタイトルからもうかがえます。
そして有名なのが乗り物好き。
法政大学航空研究会会長を務めたのもそうですが、特に鉄道好き、現在の分類でいう「乗り鉄」で、このジャンルの草分け的作品である『阿房列車』シリーズに結実しました。
また、小鳥の飼育を長年の趣味としていますが、これも文鳥を愛育していた師・漱石の影響でしょう。
その一方で、猫好きとしても有名です。
長年小鳥を買っていた関係もあって、猫を飼うようになったのは晩年近くになってから。
しかし野良猫のノラや、クルへの愛情は極めて深く、『ノラや』(1957)、『クルやお前か』(1963)は、ペット小説あるいはペットロス小説の金字塔とも言われています。
これもまた、『吾輩は猫である』を描いた師・漱石の影響といってよいでしょう。
そしてどうしてもあげておきたいのが、ふるさと岡山への深い愛情です。
岡山城(別称は烏城)天守閣が岡山大空襲によって炎上する光景は、万感の思いを込めて描いています。
百閒の人生は、巨匠・黒澤明が遺作『まあだだよ』で百閒の師弟愛を描いたように、大変魅力的なものだったのです。
(今回の文章は、『日本近代文学大事典』『夏目漱石周辺人物事典』『国史大辞典』の「内田百閒」項を参考に執筆しました。)
きのう(4月19日)
明日(4月21日)
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