八田與一が亡くなった日
5月8日は、昭和17年(1942)に台湾で「嘉南大圳の父」として慕われる八田與一が亡くなった日です。
そこで、八田の足跡をたどってみましょう。
台湾へ
八田與一は明治19年(1886)2月21日、石川県河北郡今町村、現在の金沢市今町で父・八田四郎兵衛と母・サトの5男として生まれました。
明治32年(1899)石川県立第一中学校に入学、第四高等学校大学予科二部工科を経て東京帝国大学工科大学土木科に入学します。
明治43年(1910)東京帝国大学を卒業すると、台湾総督府土木部技師となりました。
八田は発電や灌漑工事の担当となり、台南市水道工事などに従事しながら、のちに「台湾水道の父」と称えられる浜野弥四郎のもとで学びます。
そして「桃園埤圳」を指揮して事業を成功に導き、高い評価を得たのです。
ちなみに、「埤」は農業用貯水池、「圳」は農業用水路を指しています。
また、大正6年(1917)には同郷の米村外代樹(とよき)と結婚しました。
嘉南大圳の計画
つぎに八田は、灌漑施設が不十分で旱害が多発する嘉南平原に注目します。
大正7年(1918)には嘉南平原の調査を精力的に行って灌漑計画を立案すると、翌年には嘉南平原の測量調査を80名の部下とともに行って、工事設計案と予算案を作成したのです。
この計画では、官田渓に巨大なダム・烏山頭ダムをつくり、トンネルを作って曽文渓から送水して二つの水源を確保するいっぽう、嘉南平原一帯に総延長約16,000㎞もの水路を張り巡らせて、約15万haもの農地を灌漑するという途方もない計画だったのです。
この壮大な灌漑システム全体を指して、「嘉南大圳」と呼んでいます。
着工
大正9年(1920)八田の案が認められて、ついに総督府が嘉南平原への灌漑事業を決定し、議会で事業費の半分を総督府が補助し、半分を受益者負担と定めます。
さらに「公共埤圳官田渓埤圳組合」(のち「公共埤圳嘉南大圳組合」に改称)が認定されると、八田は総督府技師を辞任して組合の技師となり、工事を指揮することにしたのです。
この事業の最大の難関である烏山頭ダムと送水路建設のため、八田は大正11年(1922)烏山頭出張所長に任じられ、烏山頭に転居しました。
難航する工事
ついに烏山嶺トンネル工事に着手するものの、ガス爆発事故が発生、死傷者50余名を出す大惨事が起こってしまいます。
さらに大正12年(1923)9月に関東大震災が起こると、嘉南大圳の工事も一時中断を余儀なくされました。
その後、総督府は嘉南大圳の工期の四年間延長を決定したうえ、組合への補助金を大幅に削減したため、組合も職員の半数を解雇せざるを得ない状況に追い込まれます。
それでも工事が再開すると、烏山頭堰堤排水用トンネルが完成、さらに濁水渓導水路と給水路が完成して部分的に灌漑を開始しました。
大正15年(1926)ようやく烏山頭ダム堰堤の本工事を開始すると、昭和4年(1929)烏山嶺トンネルが完成、翌昭和5年(1930)烏山頭堰堤が竣工して、ついに嘉南大圳が完成したのです。
完成を見届けた八田は、組合を辞して総督府に戻り、内務局土木課水利係長に任じられます。
八田の栄進
完成した嘉南大圳で灌漑が開始されると、次第に経済的効果が表れて、大正8年(1933)からは顕著なものとなります。
この嘉南大圳の成功を受けて、八田は昭和7年(1932)台湾全島土地改良計画に取り組みを開始、また大甲渓電源開発を計画して昭和9年(1934)から調査に入りました。
また、昭和10年(1935)中華民国福建省主席陳儀からの依頼で、灌漑施設の状況を調査したのをはじめ、海南島などを調査します。
そして昭和14年(1939)には八田の功績が認められ、勅任官技師となったのです。
八田夫妻の悲劇
八田は、昭和17年(1942)陸軍省の命を受けて、フィリピンでの灌漑調査のため広島県宇品港から大洋丸に乗船しました。
ところが、5月8日アメリカ軍潜水艦による魚雷攻撃を受けて大洋丸が沈没、八田はこれに巻き込まれて東シナ海五島列島沖で死亡、享年56歳でした。
その後、昭和20年(1945)妻の外代樹は子どもたちを連れて烏山頭に疎開しますが、敗戦により引き揚げる直前に、烏山頭ダムの放水路に身を投げたのでした。享年45歳です。
昭和21年(1946)組合によって八田夫妻の墓が烏山頭に建設されるとともに、八田は「嘉南大圳の父」として慕われ、毎年、命日には追悼式が盛大に行われています。
八田の業績から見えてくるもの
戦時中の台湾では日本人が憎まれていたにもかかわらず、八田の仕事は多くの人たちに今も深く感謝されています。
同様に、中国の緑化運動で活躍した遠山正瑛・鳥取大学教授や、アフガニスタン復興に命をささげた中村哲医師のように、最も大切なのは、現地の一般庶民の幸せを第一に願うことであり、現地で慕われるような業績を積むことだといえるでしょう。
日本が世界で名誉ある地位を占めたいと望むのであれば、なおのこと、まずは彼らの事績を学ぶ必要があるのではないでしょうか。
(この文章は、『台湾を愛した日本人』古川勝三(青葉図書、1989)、『台湾総督府内務局主管土木事業概要. 昭和2年1月』(内務局、1927)およびWikipediaを参考に執筆しました。)
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