最後の浮世絵師・月岡芳年が亡くなった日
6月9日は、明治25年(1892)に「最後の浮世絵師」月岡芳年が亡くなった日です。
芳年といえば、芥川龍之介が小説『開花の良人』(1919)でこう記しています。
(芳年の役者絵を見ながら)「これを見ると一層あの時代が、――あの江戸とも東京ともちかない、夜と昼とを一つにしたような時代が、ありありと目の前に浮かんでくるようじゃありませんか。」
「殊に私などはこう云う版画を眺めていると、三四十年前のあの時代が、まだ昨日のような心持がして、今でも新聞をひろげて見たら、鹿鳴館の舞踏会の記事が出ていそうな気がするのです。」
この謎を解くために、芳年の生涯を振り返り、芥川が見出した芳年のメッセージを探ってみましょう。
月岡芳年の略歴
月岡芳年(つきおか よしとし)は、天保10年3月17日(1893年4月30日)に江戸で吉岡兵部の子に生まれ、父の従兄にあたる京屋織三郎の養子となったのちに、祖父の兄弟である画家・月岡雪斎の「月岡」姓を継ぎました。
本名は米次郎で、一魁斎、玉桜、玉桜楼、大蘇などの号を用いています。
芳年は、嘉永3年(1850)の秋、数え12歳で歌川国芳に入門したのです。
当時、国芳は勇壮な武者絵で、兄弟子の三代豊国と人気を二分する浮世絵師でした。
ここで米次郎は、師から芳年の名をもらうわけですが、同門には一年先輩の落合芳幾や、河鍋暁斎をはじめとする多くの弟子がいたのです。
嘉永6年(1853)15歳でデビューしますが、本格的な活動を始めたのは、万延元年(1860)からでした。
芳年は師の作品を踏襲しつつ歴史画や役者絵に取り組み、次第に頭角を現して、ようやく絵師として独り立ちできた文久元年(1861)に師・国芳が亡くなったのです。
葬式では、兄弟子の芳幾に足蹴にされる事件が発生。
しかし慶応2年(1886)には芳幾と合作で『英名二十八衆句』を合作して大ヒットとなっていますので、二人はよきライバルだったのでしょう。
そして幕末期に「血みどろ絵」で名をあげて「血まみれ芳年」と呼ばれて一躍人気絵師の仲間入りを果たします。
明治維新後は『郵便報知新聞錦絵』の錦絵で人気となり、『やまと新聞』ほかの新聞小説の挿絵など新聞界でも活躍しました。
「西南戦争錦絵」でも人気を博し、その後、『大日本名将鑑』(明治9~13年)をはじめとする「歴史画」を描き、一番人気の浮世絵師となっています。
晩年は、『月百姿』(明治18~25年)のほか、歴史や歴史を題材とした人物表現を得意としましたが、美人画や役者絵にもすぐれた作品を多く残しました。
芳年は、作品の質・量ともに明治の浮世絵界の第一人者といってよい浮世絵師で、浮世絵の時代の最後を飾るにふさわしい絵師といえるでしょう。
明治25年(1892)6月9日に54歳で亡くなっています。
徹底したリアリズム追及
なによりもリアリズムを追求した芳年の驚くべきエピソードを見てみましょう。
文久3年(1863)ころ、朝早く起きて、たびたびさらし首を見に行ったといいます。
また、慶応4年(1868)には弟子を連れて上野戦争の戦場を、裸で見物に行きました。
そして、火事と聞くと飛び出していき、現場をスケッチしたそうです。
こうした努力があって、リアルな「血みどろ絵」が描けたのですが、精神的負荷もすさまじかったらしく、激変する時代も相まって、ついには明治5年(1972)秋には強度の神経衰弱に陥ったのです。
およそ一年養生した結果、芳年は明治6年(1973)に復帰し、「大」きな「蘇」りを祈念して、「大蘇」号を使用したのでした。
芳年の人柄
芳年の人柄がわかるエピソードを、弟子の右田年英が書き記しています。
18歳の年英は持っていった絵を芳年にほめられて、入門する気になったのですが、九州武家出身だけに、芳年の職人風が不満でした。
そこで一時国沢新九郎に洋画を学びましたが、早世したため、もともと敬愛する芳年のもとへ帰ったそうです。
また、鏑木清方は幼年期に見た芳年について、こんな記憶を記しています。
三遊亭圓朝の落語速記録の挿絵を描くために、圓朝の噺を聞いていたときのこと。
圓朝の噺がしだいに進んで悲しいところへ来ると、きまって大粒の涙をぽろぽろと膝に落としていたといいます。
このように、芳年は江戸っ子気質で人情味があって凝り性、そしておそろしく研究熱心な人物だったのです。
芳年からのメッセージ
芳年の晩年、月にちなんだ逸話を主題としたシリーズ「月百姿」を描いています。
このシリーズではこれまでの作品とちがって、描かれた物語を説明するような色紙の詞書や小物を最小限度に減らし、登場人物もごく少数で色数も少ないうえに色調を統一したのです。
こうして画面をきわめてシンプルにする新たな画風は「芳年風」と呼ばれ、見た人が題材となった和歌や俳諧、歌舞伎、講談といった文芸を、見る人に強く思い起こさせるものとなったのです。
見る人を江戸の文芸へといざなう「月百姿」からは、失われてしまった「江戸」への回帰であり、懐古の想いを込めて作り上げたに違いありません。
だからこそ、芥川龍之介は、芳年が描いた「江戸」を、「あの江戸とも東京ともつかない、夜と昼とを一つにしたやうな時代」とあらわしたのでしょう。
つまり芳年の作品から、わたしたちは、失われた「江戸」をほのかに感じることができるのです。
(この文章の引用は、『開花の良人』(『芥川龍之介全集2』ちくま文庫・筑摩書房、1986)および『月岡芳年伝 幕末明治のはざまに』菅原真弓(中央公論社、平成30年)からです。
また、『血と怪奇の異才絵師 月岡芳年』青人社 編(河出書房新社、2014)および『国史大辞典』関連項目を参考にしました。)
きのう(6月8日)
明日(6月10日)
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