前回みたように、大浜主水の主張には信じがたいような多くの真実がありましたので、五島藩内で広く支持を集めるまでになりました。
窮地に追い込まれた藩主・盛利はここからどのように反撃するのでしょうか。
今回は、事件の背景をさらに探っていきたいと思います。
事件の背景
前回みたように、藩主盛利と、お気に入りの家臣たちのただれた関係はまさに「非道」といわれても仕方がないものでした。
でもなぜこんな無茶をしたのでしょうか。
ここでポイントになってくるのが、「福江直り」です。
「非道」な仕打ちを受けたのは、大浜主水の大浜家、乗っ取られた松尾家など、古くから五島に根を張る在郷領主、中でも両家は家老クラスの家柄でした。
いっぽう、盛利がひいきした取り巻きは、田尾(のちの松尾)、七里ともに外様で新しく五島に来た、宇久五島家当主が呼び寄せた家臣たちです。
つまり、藩主の領主としての地位を確立させることを急ぐあまりに、手段をえらんでいられない状況となってしまったとみてよいでしょう。
またいっぽうで、主水から見ると、藩主盛利をなんとしても失脚させたいと思って口実を探していたまさにそのタイミングで、妻の孝子が盛利のお気に入りだった田尾九郎右衛門と不倫する事件が起こったので、これを利用したわけです。
ここから先は第23回「福江直り」で見ることにして、大浜主水事件に戻りましょう。
「法廷闘争」
大浜主水の直訴によって家中は大混乱となり、ついには幕府の裁可を待つこととなりました。
主水側は江戸に常駐して盛んに藩主の非道を訴えますし、藩主側も五島藩きっての切れ者の家臣・貞方勝右衛門雅貞(もと平田雅貞、彼もまた外様衆で五島の名家・貞方家を継いでいます)を江戸に送り出して、両者は評定所で激しく争います。
主水が訴え出て一か月たった元和5年(1619)7月には藩主盛利側も弁明書を提出して争いは激しさを増していきました。
幕府の裁可
しかし幕府の裁決が出ないままに、二年後の元和7年(1621)に幕府巡検使として秋元但馬守泰朝と竹中采女正重義が五島に来島して両者から口書を得て持ち帰ります。
これを受けて、ようやく元和7年(1621)11月に藩主盛利が江戸に呼ばれて査問を受けます。
そして幕府が下した裁可は、五島はこれまでと同様に盛利に安堵する、前代藩主玄雅の子は藩主の了簡次第、主水はこれまで通り家来に召し使うべし、というものでした。
この裁可は一見したところ、幕府は盛利を藩主とみとめるものの、大浜派にも配慮した、中庸的な裁可とみえるのではないでしょうか。
玄雅の子・千鶴丸は「藩主了簡次第」とはいうものの、処刑するとかではなく穏やかな解決方法をとれという意味ですし、主水の地位についても現状維持ですから、なるべく平穏に解決しろ、という意味にとるのが自然なのかもしれません。
こうしてみると、辺境にあって異国船警護という役を担い続ける五島藩には、なるべく現状のままでいてほしいというのが幕府の本音なのでしょう。
盛利、実質的勝利
しかし、盛利から見ると、改易という最悪の事態を回避できたうえに、領主権を幕府が認めてくれたということは、それでもう十分な勝利だったのです。
さらに、藩内の情勢からみても、主水が提出した証拠からも盛利不利は隠すべくもない状況だったのですから、この裁可は、盛利にとっては勝利に等しいものといってよいでしょう。
この盛利の勝訴は、江戸で幕府に運動した貞方勝右衛門雅貞の働きが何より大きかったのはいうまでもありませんが、これを五島から支え続けた青方雅盛の働きも見逃せません。
しかし、藩主盛利はこれを自身が領主に認められたと積極的に喧伝して、かなり強引な手法で野望を達成することになるのですが、それは第23回「福江直り」の際に改めてみることにしましょう。
こうして五島藩存続の危機ともいえる大浜主水事件を、大逆転で実質的勝利の幕府裁可を勝ち取って藩主盛利は乗り切りました。
しかし、これですべてうまくいく、という風にはならなかったのです。
次回は、その後も長く尾を引いた事件のあと始末についてみてみましょう。
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