前回見たように、ようやく「悪の忍者集団」風魔一党を滅ぼした盗賊の大頭目・向崎(高坂、勾坂)甚内に、今度は幕府が手のひら返しで追捕にかかります。
十年に及ぶ潜伏ののち甚内は捕縛され、市中引き回しの上浅草鳥越川の河原で獄門に処されます。
慶長18年(1613)8月のことでした。
獄門に際して、甚内は見物人たちに向かってこう叫んだと言われています。
「自分が捕縛されたのは、疱瘡(高熱を伴う病気)に罹ったからだ。死んで疱瘡を呪ってやる。」
こして非業の死を遂げた甚内を、江戸っ子たちは自分たちを疱瘡から守ってくれる神様として処刑地の近くに祭ったのでした(神社北を東西に走る道路が、かつての鳥越川の流路です)。
江戸時代には甚内神社の社地は現在の東約80ⅿの位置にありました。
甚内神社が疱瘡の神として多くの信仰を集めたことは、近くにかかっていた鳥越川の橋が甚内橋と呼ばれていたことでもわかります。
現在も甚内神社は、鎮座する柳二町会の有志が甚内会を作って大切に保全されています。
用済みとばかりに自分を獄門に処した幕府への恨み言一つなく、死してなお人々を護る。
盗人が本業とは言え、ある意味あっぱれな男意気、甚内の生きざまは後世の人々を魅了して止みませんでした。
三田村鳶魚もその一人で、巷説を書き残しています(甚内神社の案内板はこの説に拠っているようです)。
これによると、「甚内は戦国大名武田信玄の重臣 高坂弾正の子で、(幼くして武田家が滅亡したために)信州で忍者となる。その後、宮本武蔵の弟子となるが、師と喧嘩になって破門。その後、義賊となった」というものです。
真偽のほどはともかく、疱瘡の守り神としてあがめられた甚内の人気はさらに高まっていくことになります。
天明2年(1782)1月に江戸中村座で初演された『七種粧曽我(ななぐさよそおいそが)』は尾上松助が工夫した「胴抜け」と呼ばれる男女二役の早替りの仕掛けで評判をとった演劇史に残る名演ですが、その役の名が「高坂甚内」でした。
その概要は、「小山の判官は高坂甚内という浪人者となって鎌倉藤が谷の御殿に忍び込む。深編笠で顔を隠した甚内が花道から出て枝折戸から座敷を窺うと、松助が二役早替りで大姫になって現れるというもの」(引用文献1)。
のちに天明3年(1873)正月の中村座公演では座頭徳都役で当時五歳の徳蔵(のちの六代目市川團十郎)が初舞台を踏んだという由緒ある作品で、いわゆる曽我物の代表作となりました。
そして、天明2年(1782)に大坂の角の芝居で中山新九郎が『けいせい黄金鯱(こがねのしゃちほこ)』を初演しています。
その一幕に登場するのが高坂甚内です。
ストーリーは「柿木金助の母連に育てられた高坂甚内は十五歳のときに家出して盗賊の張本となる。関東道者に身をやつした甚内は小倉堤で西国道者の金助に会う。斎藤龍興の館に院使となって乗り込み、自分が幼い時に取り替え子となった本物の斎藤龍興だということを知る。」(引用文献1)。
当時大いに流行したけいせい物の一つですが、その準主役、しかも初演が大坂というところに甚内の知名度の高さを見ることができます。
甚内は、残念ながら主役にはなっていません。
しかし、私は甚内の甲州すっぱの出身で義盗というイメージは広く知られるようになっったことが、のちの石川五右衛門や自来也(自雷也)といった大人気のダークヒーローが誕生する素地になったのだ と思っています。
次回では、甚内はじめ、石川五右衛門や自来也など、盗賊・忍者のダークヒーローたちについて見ていきたいと思います。(甚内神社・後編)
この文章は、次の文献を引用して執筆しました。
引用文献1:河竹登志夫監修 古井戸秀夫編『歌舞伎登場人物事典』2006白水社
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