前回は、兄である勁一の急逝により、急遽襲爵した牧四郎についてみてきました。
その後、牧四郎は叔父である若尾幾造の芝公園邸宅に同居するなど、深いつながりを持つようになっています。
そこで今回は、このころの若尾家をみてみましょう。
若尾逸平の時代
前にみたように、若尾家は行商から身を起こした若尾逸平が、横浜開港時に貿易商となって巨万の富を得たことにはじまります。
明治維新後も巨益を得て山梨県を代表する地主になったうえ、東京電燈や東京馬車鉄道(のちの東京電車鉄道)を「乗っ取り」、財界での地位を確立しました。
こうして逸平の作り上げた莫大な資産は、横浜若尾家、東京若尾家、そして山梨の若尾本家に分かれるものの、同族間での結婚や養子縁組を通じてつながりを強化していました。(第34回「長育の華麗な人脈」参照)
若尾家の世代交代
しかし、逸平は大正2年(1913)に没すると、これを継いだ養嗣子の民造も大正5年(1916)に死去すると、民造三男謹之助が相続します。
また、横浜若尾家の当主幾造も明治29年(1896)に没したのにともなって長男林平が二代目幾造を襲名していて、世代交代が急速に進みました。
逸平と幾造の兄弟が莫大な資産を築いていましたので、次世代はこれを守る姿勢に転じたのです。
こうした中、若尾本家は明治38年(1905)には、神奈川県と山梨県を所轄する第49連隊の甲府誘致に莫大な資金を投じ、これを成功させて山梨県で絶大な声望を得ました。
また、横浜若尾家の二代幾造も、若尾銀行を設立、生糸業への投資を進めるなどして横浜財界の巨頭となって、政財界ににらみを利かすことになったのです。
こうして政財界の重鎮となった「若尾財閥」は、同族となった小笠原子爵家への支援を惜しむことはなかったのでしょう。
若尾財閥の凋落
ところが、大正7年(1918)に起こった米騒動で若尾本家が焼き討ちされてしまいました。
さらに、第一次世界大戦で未曾有の好景気に沸いた日本経済が、講和後の大正9年(1920)には一転して反動恐慌に陥って、「若尾財閥」は大打撃を受けたのです。
この事態に追い打ちをかけたのが大正12年(1923)9月1日に発生した関東大震災でした。
震災に伴って震災恐慌が起こると、「若尾財閥」は致命的打撃を受けて、ついに「財閥」の中心だった若尾銀行が身売りするまでに追い込まれてしまいます。
うち続く危機にもはや第二世代の若尾一族に打つ手はなく、昭和4年(1929)ニューヨークの株式暴落から始まった世界恐慌が日本に及びます。
こうして昭和恐慌がはじまると、若尾財閥は完全に没落して消滅してしまったのです。
今回は小笠原子爵家と血縁関係にあった若尾家の凋落をみてきました。
次回は、牧四郎の死とその妻・富喜の小笠原子爵家を守る戦いをみてみましょう。
コメントを残す