悲劇の名将・源義経愛用の甲冑 赤糸縅大鎧 

古来より武士は、戦で自分をも持ってくれる鎧甲冑に邪悪なものを退ける力がると信じてきました。

そこで今回は悲劇の名将・源義経の生涯と創業51周年を迎えられた「人形の昇玉」の鎧飾り「赤糸縅 大鎧(あかいとおどし おおよろい) 源義経用 5号」をご紹介します。

長文ですがぜひ読んでみてください。

赤糸縅大鎧 源義経用 悲劇の名将の鎧を忠実に再現した鎧飾りです。
【赤糸縅大鎧 源義経用 悲劇の名将の鎧を忠実に再現した鎧飾りです。】

源義経とはどんな人?

源義経(1159~89)は日本の歴史を代表する武将で軍事軍略の天才です。

源義経(中尊寺所蔵、Wikipediaより2020.9.23ダウンロード)の画像。
【源義経(中尊寺所蔵、Wikipediaより)】

しかし後半生は悲劇的で、数々の伝説を残すヒーローとなっています。

では、もう少し彼の人生を具体的に見ていきましょう。

義経の幼年時代の名前は牛若丸(うしわかまる)といいました。

父の源義朝が、平治の乱(1160)では平清盛に敗れて非業の死を遂げたあと、母の常盤御前の一身を擲っての助命嘆願もあって一命を助けられ、鞍馬寺にあずけられたのです。

この時、鞍馬山中で鬼一法目に兵法を学び、鞍馬の天狗と武術を修業したという伝説があり、牛若丸と言えば烏天狗を連想するくらい良く知られるところです。

また、武蔵坊弁慶と清水寺(のちに五条大橋)で決闘して勝利し、弁慶を家臣とした逸話は みなさんもご存じでしょう。

歌川国芳「義経一代記 五条ノ橋之図」制作年不明 大英博物館(部分)橋の上で長刀を振る弁慶と、これをひらりとかわす牛若丸。
【歌川国芳「義経一代記 五条ノ橋之図」制作年不明 大英博物館(部分)】

成長するに及び鞍馬寺を脱出して自ら元服し、源九郎義経を名乗って奥州平泉の藤原秀衡の庇護を受けました。

そして、兄の源頼が伊豆で平家打倒のために挙兵すると、これに馳せ参じます。

その後兄の命を受けて上洛、京中で狼藉を繰り返していた木曾義仲を倒して京都に入りました。

「一の谷合戦」(歌川国芳1845、大英博物館)の画像。
【「一の谷合戦」歌川国芳1845、大英博物館】

さらには、福原(現・兵庫県神戸市)に軍を展開していた平氏を背後から攻撃して壊滅させてる大きな軍功を挙げたのです。

これが世に言う一之谷の合戦(1184)で、馬に乗って断崖を下った「鵯越の逆落し」の伝説が広く知られています。

その後しばらくは京都の治安維持にあたっていましたが、平氏が勢力を盛り返すと再び平家追討に起用されます。

一か月後には海を渡って阿波(現・徳島県)を急襲、ここから屋島(現・香川県高松市)にあった平家の拠点を背後から奇襲して敗走させました。

これが屋島の合戦(1185)で、この折の那須与一の逸話をご存じの方も多いのではないでしょうか。

さらに西に平家を追い、壇之浦(現・山口県下関市)で平家一門を壊滅させます。

この時にも、平家の猛将 平知盛との戦闘で八艘の船を飛び渡たる「八艘飛」の逸話を残しています。

「程義経戀の源一代鏡 三略伝」(歌川国芳1853、大英博物館)の画像。
【「程義経戀の源一代鏡 三略伝」歌川国芳1853、大英博物館】

こうして平家討滅の比類なき戦功をあげた義経ですが、今度は一転して兄 頼朝の不興を受けて謀叛します。

しかし、味方するものは少なく、都落ちして畿内各地を転々と逃亡せざるをえなかったのでした。

この時の義経からは、『義経千本桜』や『船弁慶』、『勧進帳』などたくさんの伝説や物語が生まれて、歌舞伎や文楽では数多くの作品となって、今でも人気を博しています。

その後 義経は、再び奥州の藤原秀衡を頼ったものの、秀衡の子泰衡によって衣川の館(現・岩手県西磐井郡平泉町)で殺害されてしまいます(1189)。

ここに義経は三十一歳の生涯を終えましたのです。

義経の死においても「弁慶の立ち往生」の逸話はつとに有名ですし、さらには義経蝦夷渡りなどの伝説さえも生まれたのでした。

義経はどうして大人気なのでしょうか?

参陣からその死まで、わずか9年間。

義経の数奇な運命と悲劇的な最期のために彼を英雄視する伝説や物語が多く生まれ、能や歌舞伎など日本文化の重要な題材となって日本人の心に深く根付いているのです。

数々の伝説に彩られた義経は、軍事の天才としてその名が知れ渡ることとなりました。

そのため、数々の名場面で義経は大鎧を着た姿で描かれているのです。

赤糸縅大鎧を右手から上半を見た画像。

大鎧とは?

大鎧とは、平安時代中期に登場した大形の鎧で、源平合戦ではほとんどの武将が使用していたものです。

ここで、大鎧についてみてみましょう。

平安時代末期の頃の合戦は、人馬一体となっての騎馬戦が中心でした。

そのため、大鎧は馬上の武者のほぼ全身を防護する形態となっているので、騎馬戦に最も適した形になっています。

これに対して、徒歩用の軽快な腹巻・胴丸という体幹のみを防御するものを小鎧と呼んでいました。

大鎧の構造は?

大鎧の基本的な構造を見てみましょう。

まず、胴体を護るための胴(どう)があります。

この胴は、着脱しやすいように右側が大きく空いた形の一体構造になっています。

この空いた部分が弱いので、ここを塞いで護るのが脇盾(わきたて)です。

これに、馬の鞍に座った時に鎧から出てしまう大腿部を護るのが草摺(くさずり)です。

この草摺は、胴の前・後・左と脇盾の下にあたる右の四つの面でできていて、隙間がない箱形になるように作られています。

赤糸縅大鎧を正面から上半を見た画像。

さらに、胴の上に隙間ができるので、前面には弦走(つるばしり)をつけてこの隙間を埋めています。

さらに狙われやすい背面は、立挙(たてあげ)を付けて胴を補強して、上にできる隙間に逆板(さかいた)をつけて塞ぎました。

これに加えて、動くと隙間ができやすい首と肩の境目には肩上(かたがみ)を上からかぶって装着します。

さらに弱点になる頸部を護るために、肩上に左右二枚の障子の板(しょうじのいた)をつけて隙間をなくしまが、二枚に分かれているのは首を動かせるよう配慮したものです。

矢や槍が当たりやすい両肩は袖(そで)をつけて護ります。

これに兜をかぶって頭部を護れば出来上がりです。

その外にも、右手で弓を引く時にできる隙間を埋めるために、小さい楯状の鳩尾板(きゅうびのいた)を左の脇上につけて護るのも大切です。

赤糸縅大鎧を右手から見た画像。

一方、右手で太刀を持って戦うときに右の脇上部に隙間ができるので、栴檀板(せんだんのいた)をつけて隙間をなくします。

これだけのパーツがすべてそろったのが大鎧、これを装着するのも一苦労、しかもものすごく重いのです!

赤糸縅大鎧を右手後ろから上半を見た画像。

大鎧の役割とは?

大鎧はもちろん、戦において着る人を護るのが第一の役割です。

しかし、それだけではないのです。

戦場で誰よりも目立つように、また見栄えがするように、当時の大鎧には当時の最先端の技術が集められていました。

大鎧は美しさと実用性を追求したものとなり、漆芸・金工・染織などの工芸技術の粋が尽くされていたのです。

そしてそこには華鬘などの寺院の装飾を作るのに使われた革の加工や染織技術を転用して小札や絵韋の装飾に、仏像を作る漆芸技術は小札の加工に生かされました。

天辺の座などの金具類とその装飾は、仏具を作るための金工技術を応用したものなのです。

赤糸縅大鎧を右手から見た画像。

中でも将の平安時代の大鎧では、騎馬戦での防御機能と同時に、美しさも追究されていくことになりました。

そしてその結果、小札を絲や細い韋紐で結びつける日本独特の縅の手法が、色彩的・構成的に華麗な美しさを生み出しているのです。

ここまで見てきたように、大鎧は「武士」を象徴する存在と言えるもので、いわば侍の魂と呼ぶべきものなのです。

なかでも軍事の天才・源義経の愛用した甲冑は、きっとあなたを邪悪なものから護ってくれるに違いありません。

赤糸縅大鎧を正面から見た画像。

今回ご紹介する鎧飾り「赤糸縅 大鎧 源義経用 5号」は細部までこだわって忠実に再現した商品です。

詳しくはこちらをご覧ください。

人形の昇玉の外観画像。

今回ご紹介した「赤絲縅 大鎧 源義経用 5号」は人形の昇玉で実際に見ることができます。

ぜひ大鎧の美しさを実際にご覧ください。

昇玉店内に鎧や兜の飾りがずらりと並んだ画像。
【昇玉店内。鎧や兜の飾りがずらりと並んでいます。】

今回ご紹介した源義経大鎧のほかにも、伊達政宗所用の鎧具足飾り緋縅大鎧をご紹介しています(日本語)。

詳しくはこちらをご覧ください。

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