前回みた前線の諸将が提案した戦線縮小の提案に、太閤秀吉はどう判断を下すのでしょうか。
そこで今回は、秀吉の判断とその後の展開をみていきましょう。
秀吉激怒
この提案を、小西行長、宗義智、加藤嘉明、立花宗茂らが反対して決着がつきませんでした。
そこで慶長3年(1598)1月26日、秀家ら諸将が連署して、この案の正否について秀吉の判断を仰ぐこととなったのです。
結果から言うと、3月13日、この提案をみた秀吉は激怒、即座に否定されてしまいます。
さらに、提案を主導した蜂須賀家政は叱責されたうえに、蔵入地を召し上げられるという厳しい処分を受けたのです。
提案の内実
しかしこの提案をよく見ると、実はかなり現実的なものだったのがわかります。
じつはこの時、明軍は蔚山の敗北以降その兵力が決定的に不足、また朝鮮軍はほぼ壊滅状態と、日本軍が漢城をすぐに目指せる戦況にありました。
この点では秀吉の判断は正しかったわけで、おそらくこれは、福原長尭はじめとする軍監たちが正確な情報を伝えていたからなのでしょう。
いっぽうで、ほどなく明から大規模な援軍が派遣されるのはだれもが予測するところ。
したがって、援軍到着までの時間を、蔚山と順天を放棄して、泗川と釜山周辺の防衛線構築にあてるのは現実的な提案だったのではないでしょうか。
ところが、秀吉の逆鱗に触れたことで、諸将はあきらめにも似た感情を抱いたのかもしれません。
そしてもう一つ、おそらくこの会議での行動がもととなって、宗茂の有名な逸話が生まれました。
第二次蔚山城攻防戦
予想通り、明・朝鮮連合軍は、明本国からの増援部隊10万を得て、再び勢いを取り戻しました。
慶長3年(1598)8月、明・朝鮮連合軍は、蔚山城を攻める東路軍、泗川城を攻める中路軍、順天城を西路軍と水軍がそれぞれ攻撃する戦略をたてたのです。
このうち、東路軍約3万は9月22日から加藤清正が守る蔚山城への攻撃を開始しました。
しかし、前回の籠城戦での経験を生かして、清正は籠城への備えを万全にして迎え撃ちましたので、攻め手の被害は増すばかり。
明・朝鮮連合軍は完全に攻め手を欠いて、戦闘は膠着状態に入ります。
日本軍第一の勇将
そんな第二次蔚山城攻防戦では、宗茂に関するこんな逸話が残されています。
清正が守る蔚山城が再び包囲されたことが伝えられると、釜山付近の日本軍諸将は軍議を開き、蔚山、泗川、順天の三城救援策を評定しました。
ところが、評定を重ねても結論が出ないことに、しびれを切らした宗茂はこう言い放ちました。
「評定ばかり重ねても無駄なこと。私の考えでは、蔚山城の敵を追い払えば、泗川の敵は退き、泗川の敵が退けば順天の敵も退くに違いありません。
ですから、この宗茂がまず蔚山城の救援に向かいましょう。」
これを聞いた総大将の小早川秀秋は、「それは良い考えです、わずか3,000の兵ならば、しくじっても味方は困りませんから。」と言い放ったのです。
宗茂はさっそく1,000ほどの兵を率いて救援に向かい、まず夜襲を敢行、さらに鉄砲で集中砲火を浴びせて明軍先陣の5,000を撃退します。
そして夜襲でとらえた敵兵40人余りを開放して敵陣に偽情報を拡散させたのです。
さっそくその夜、偽の陣地や営火をつかって敵を引き出して伏兵で攻撃、明軍をみごと分断包囲して大打撃を与えることに成功します。
その翌日には、蔚山城に到着して清正を援けたのでした。
さらにその後、救援軍本隊の到着で動揺する明軍を、宗茂と清正が城内から打って出て撃破したのです。
こうして清正は、宗茂を「日本軍第一の勇将」と絶賛激賞した、と伝えられています。
たしかに、軍記物の脚色が入っているのかもしれませんが、宗茂なら実際にありそうにも思える逸話ですね。
また、のちにみる関ケ原合戦後の清正の行動をみたとき、清正と宗茂には互いを知る友情的なものが感じ取られることも、この逸話がまったくの作り話ではないことがうかがえるのではないでしょうか。
今回は、第二次蔚山城攻防戦での宗茂の活躍をみてきました。
次回は、朝鮮出兵最後の激戦、露梁海戦における宗茂の活躍をみてみましょう。
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