前回、関ケ原で西軍が敗れ、敗軍の将となった宗茂が柳川に帰還するまでをみてきました。
このまま宗茂はあきらめてしまうのでしょうか。
今回は、まだ戦い続ける宗茂をみてみましょう。
鍋島直茂の柳川侵攻
ようやく柳川に戻った宗茂ですが、まだまだ戦は続きます。
柳川城の宗茂に、黒田如水、加藤清正、鍋島直茂が攻めこんできたのです。
如水と清正は東軍ですが、直茂は子の勝茂が西軍に参加していたことを挽回するため、総力を挙げて攻めかかってきました。
慶長5年(1600)10月14日には鍋島軍が3万の大軍を率いて、本拠地である佐賀城を出立したのです。
これに対して宗茂はみずから兵を率いて迎撃に向かおうとしますが、重臣たちが宗茂を止めました。
というのも、じつは一族の立花親次を大坂城に残して家康への謝罪を行っていたのです。
そこで、宗茂は徳川家康に恭順の意を示すために柳川城に残り、家老の小野鎮幸を総大将として鍋島軍にあたることにしました。
ついに鍋島軍が10月16日に筑後川を渡り、さらに翌日には城島城に攻めこんだのです。
立花軍も城島城には守備隊をほとんど置かず、撤退時に鍋島軍に反撃して損害を与えると、兵力を集中させて決戦に備えました。
江上・八院の戦い
そしてついに10月20日には、鍋島軍と立花軍が激突します。
立花軍先鋒の安東範久・石松政之は独断で開戦すると、破竹の勢いで鍋島軍に突撃します。
ところがこれは鍋島軍の罠で、敵陣深く攻め込みすぎた立花軍は、分断されたうえに鍋島軍に包囲されて、各個撃破されてしまったのです。
こうして立花統次、立花鎮実、立花親雄、新田鎮実などが次々と戦死、この状況に後詰の矢島重成と千手喜雲が判断を迷っているうちに、さらに事態は悪化。
先鋒を務めた安東範久と石松政之や安東幸貞、十時惟久などが次々と討ち死にしてしまったのです。
総大将の小野鎮幸も手勢を失って討ち死に寸前となるところを、黒田軍偵察に向かっていた立花成家が鍋島軍に奇襲攻撃したことで、ようやく危機を免れたのです。
柳川城開城
こうして惨敗を喫した立花軍は、柳川城に籠城する準備に入りました。
柳川城は、「柳川三年、肥後三月」(肥後は3ヶ月もあれば平定できるが、柳川城を攻め落とすには、3年はかかる)とうたわれた難攻不落の水城です。
挽回の意気に燃える鍋島軍は、勢いに乗って、そのまま柳川城に攻めかかろうとしていました。
この鍋島軍を直茂が制止し、その間に黒田如水と加藤清正が宗茂の説得に動きます。
清正の説得
関ケ原での勝利により、もはや天下の大勢は決しました。
それに、いくら柳川城が難攻不落といえども、日本全土を敵に回して戦うのは犠牲が増えるばかりで、これ以上の戦いは無益であると説いたのでしょう。
とくに清正は、慶長の役で宗茂が真っ先に救援へ向かった恩があるからか、ことのほか熱心に降伏を説いたともいわれています。
じつはこのとき、家康への謝罪にあたっていた立花親次が任務に成功し、家康からの許しを持って柳川に帰ってきたのです。
宗茂は親次を賞したうえで、江上の戦いが自衛のためのもので、家康への敵意がない旨を復命させるべく、再び大坂に向かわせました。
そして清正と如水の説得を受けて、宗茂は10月25日に降伏し、柳川城を開城したのです。
こうして柳川城を失った宗茂ですが、これからいったいどうなってしまうのでしょうか。
次回は、宗茂が浪々の身から復活するまでをみてみましょう。
《関ケ原の戦いから柳川開城までは、『福岡県史』『旧柳川藩誌』『日本戦史 関原役』を基に執筆しました。》
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