内政のスペシャリスト吉政【筑後国柳川藩(福岡県)19】

前回は、関ケ原の軍功により、柳川に入封した田中吉政をみてきました。

そこで回は内政のスペシャリスト・吉政がとった驚くべき施策をみてみましょう。

「田中高」

吉政は、入国直後から検地を実施して知行地の配分を行いました。

この検地の結果、打ち出された石高が、なんと総高75万石。

天保国絵図・筑後国(天保9年(1838)国立公文書館デジタルアーカイブ)の画像。
【天保国絵図・筑後国(天保9年(1838)国立公文書館デジタルアーカイブ) 】

太閤検地で筑後一国の領地高が30万石あまりであったのと比べると、わずか10年ほどで2.5倍という事実をみると、吉政が打ち出した石高の無茶ぶりがわかるでしょう。

もちろん、「田中高(たなかだか)」は、実際の石高である玄蕃高と大きな開きがあることであることはいうまでもありません。

しかしこの田中高こそが、吉政による領国経営の秘策だったのです。

なぜ田中高?

じつは、田中氏の家臣団は非常に多く、その知行高も高かったので、早晩藩財政のひっ迫が予想される状況でした。

というのも、三河以来の譜代家臣に加えて、領地高の大幅な増加に見合うようにあらた在地土豪系の家臣を召し抱える必要があったのです。

このため、家臣数は膨大となり、二代忠政時代でその数2,380人を超え、その知行高は合計すると29万石余りに及んでいたのです。

そこで威力を発揮するのが、あの田中高。

なんと、家臣の知行地や寺社領を田中高で配分するのです。

田中高は玄蕃高よりもはるかに過大でしたので、これによって単純計算で半分以下と、実質的に知行地の削減ができるというわけでした。

柳川街道(田中道大木町付近)、昭和22年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、USA-M118-40〔部分〕)
【柳川街道(田中道大木町付近)、昭和22年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、USA-M118-40〔部分〕) 南筑平野を右上から左下に斜めに横切るのが田中道。】

田中高導入の背景

吉政がすごいのは、このからくりのために入国後すぐに検地を行ったところ。

もちろん、年貢の収納は実態に合った玄蕃高を基準とするのはいうまでもありません。

入国時にはすでに領地経営の全体像が正確に描かれていたのです。

そのことを示すように、吉政は道路の建設や水路の掘削、堤防の構築など、柳川を作り変えるような多岐にわたる規模土木工事を次々と行いました。

吉政得意の領国経営のノウハウを惜しげもなく投入して、現在みる柳川の基礎を作り上げたのですが、これについては次回に詳しく見ることにしましょう。

吉政死す

こうして領国経営を軌道に乗せたうえに、徳川家のおぼえもめでたい状況となって、田中家も安泰かと思われるまでになりました。

そして吉政は侍従に進み、筑後守と改めています。

ところが、慶長14年(1609)2月18日、参勤の途中、伏見の旅亭で死去してしまったのです。

田中忠政

田中忠政(たなか ただまさ・1585~1620)は、先代藩主田中吉政の四男として近江に生まれました。

幼少より証人として江戸にあり、のち従五位下隼人正に叙任しています。

慶長10年(1605)、二代将軍秀忠上洛のとき供奉しました。

父吉政の急逝を受けて、忠政が嫡子として慶長14年(1609)4月3日に家督を相続しています。

しかし、四男の忠政が家督を相続したのには訳がありました。

じつは、長兄吉次は父の勘気をうけ、三男吉興は病がちのため、別に2万石を分与されて分家させられていたのです。

そして忠政は家督を継ぐと、従四位下、従に昇叙されるとともに、筑後守と改めました。

また、秀忠の諱字を許されて忠政と称し、領地朱印状を下付されています。

「竹橋見附」(『江戸見附写真帖』1918-向陵社 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【忠茂が石垣構築を担当した竹橋の「竹橋見附」(『江戸見附写真帖』1918-向陵社 国立国会図書館デジタルコレクション)】

これに対して、慶長19年(1614)正月から9月まで、忠政は江戸城西の丸下大名小路の一郭および竹橋付近の石垣構営の分担に従事して幕府への貢献に勤めたのです。

ここまで、内政のスペシャリスト・吉政がとった驚くべき施策をみてきました。

急遽、吉政の跡を継いだ忠政は、うまく領国経営できるのでしょうか。

そこで次回は、柳川藩田中家二代忠政の時代をみてみましょう。

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