前回までは、会津戦争における柳川藩の活躍を見せていました。
じかし柳川藩が戦地に赴いたのは、東北地方だけではなかったのです。
そこで今回は、柳川藩が参加した咸臨丸捕獲作戦をみてみましょう
榎本艦隊江戸脱走
越後や奥州で激しい戦闘が続いていた慶応4年(1868)7月、榎本武揚率いる旧幕府艦隊は、江戸湾で不気味な沈黙を保っていました。
そしてついに8月19日(新暦9月14日)、旧幕府艦隊は江戸湾を脱走して蝦夷地を目指します。
榎本に従った艦は、開陽、回天、蟠龍、千代田形、神速、長鯨、美賀保、咸臨の八艦で、松平太郎ら旧幕府軍を乗せて品川沖を出港したのでした。
この事態に新政府軍はすぐさま、榎本艦隊を取り締まるため、駿河国清水港へ軍艦富士山丸、武蔵丸、飛龍丸を差し向けます。
『太政官日誌』によると、榎本艦隊には旧幕府軍が乗船していましたので、陸戦兵を同乗させることにして、柳川藩の兵隊は飛龍丸へ乗り組むよう命を受け、木村縫殿率いる1個小隊が乗り組みました。
いっぽう、『幕末軍艦咸臨丸』では、咸臨丸が立ち寄った下田港から通報があったため、咸臨丸を拿捕するために飛龍丸を差し向けた、としています。
また、この時には飛龍丸が柳川藩預かりとなっていたので、船の運航自体を柳川藩が行っていました。
下田で咸臨丸が清水港に向かったとの情報を得て、飛龍丸は富士山丸、武蔵丸と合流して清水へと急行したのです。
咸臨丸とは
いっぽう、江戸湾を出た榎本艦隊は銚子沖で台風に遭い、美賀保丸が難破してしまいます。
さらに、回天(蛟竜とする資料もあります)が曳航していた咸臨も破損して漂流してしまったのです。
咸臨丸といえば、(1860)遣米使節新見正興の随行艦として日本人操艦による最初の太平洋横断に成功したことで知られています。
この快挙により、提督木村喜毅と艦長勝海舟の名は一躍全国に知られることになりました。
咸臨丸は幕府が近代海軍創設のためオランダに発注した蒸気船で、安政4年(1857)に竣工しました。
排水量は625トン、長さ163フィート、幅24フィート、砲12門を備え、船価は10万ドルです。
じつは、損傷が激しいために慶応元年(1865)に蒸気機関を撤去、帆船として改修されていました。
このときも、回天から切り離されたあと座礁したものの、なんとか清水港にたどり着いていたのです。
咸臨丸捕獲
その後、新政府艦隊が新暦9月18日清水港へ入港したところ、咸臨丸が碇泊していましたので、富士山丸、武蔵丸、飛龍丸の三艦で囲んで挙動を伺いました。
その後、富士山と武蔵両艦が大砲を発砲、飛龍丸も発砲したところ、すぐに咸臨丸は降伏の白旗を揚げます。
そこで砲撃をやめて、飛龍丸を咸臨丸に寄せたうえ、士官が水夫を率いて乗り移ったところ、副艦長春山辨吉が抜刀して切りつけたので、接近戦に及んだのです。
『幕末軍艦咸臨丸』では、春山が抜刀した理由を、乗り込んだ者たちから耐え難い罵詈雑言を浴びたためとしています。
そして、突然始まった斬り合いに、咸臨丸の水夫たちはただただ茫然としていたそうです。
この事態に、柳川藩銃隊が甲板から射撃を加えたところ、咸臨丸の乗組員は銃撃から逃れようと海に飛び込んだり船倉に隠れたりしました。
そこで、海中に逃亡した乗組員は柳川藩銃隊が狙撃し、隠れていたものは全員捕らえたのです。
戦闘の結果、討ち取ったものは二十人余、生け捕ったのは、船将・小林文次郎ほか10名、水夫29人で、新暦9月23日には咸臨丸を連れて凱旋しています。(「柳河藩届書冩」『太政官日誌 明治紀元戊辰冬十月 第110』)
清水次郎長の戦死者供養
じつはこの事件における旧幕府軍の死者を柳川藩は回収せず、放っておきました。
これを哀れんだ地元の有力者・清水次郎長が遺体を回収して埋葬したうえで、供養します。
そして墓地に巨大な碑を建立したのです。
次郎長の地元で起こった事件とはいえ、彼の義侠心を示すエピソードといえるでしょう。
咸臨丸のその後
ちなみに、咸臨丸はこの後、開拓使所管の輸送船をへて回漕業木村万平の手に渡り、明治4年(1871)北海道木古内町泉沢更木岬沖で座礁し沈没しました。
今回は、柳川藩が参加した咸臨丸捕獲作戦についてみてきました。
次回は、北越戦争の流れを一気に変えた太夫浜上陸作戦をみてみましょう。
《咸臨丸拿捕については、文中に挙げた『太政官日誌』とともに、『幕末軍艦咸臨丸』『戊辰戦争』『戊辰戦争全史』をもとに執筆しました。》
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