前回みたように、戊辰戦争も終わり、明治という新しい時代がはじまりました。
柳川藩と立花家は、新しい時代をどう迎えたのでしょうか。
そこで今回は、明治時代はじめの立花家と柳川についてみてみましょう。
藩政改革
藩主鑑寛は、戊辰戦争で中断していた藩政改革を再開します。
長州征伐以来、莫大な戦費を負担したこともあり、藩政改革は徹底したものになりました。
まず、鑑寛が長年にわたって働きかけていた立花家分家の三池藩再立藩が明治元年(1868)9月に実現しました。(第45回「下手渡の戦い」参照)
これにより、柳川藩預かり地9,840石余を返上し、立花種恭を藩主に三池藩が再置されたのです。
さらに、明治2年(1869)3月文武館を再興しました。
また、6月24日に版籍奉還しますが、柳河藩知事に任ぜられて立花壱岐親雄の指導の下で藩政改革は継続されます。
10月2日政庁を布政所と改めると、10月16日家老・中老制を廃し、大参事・少参事とし、大参事に小野若狭高基、小参事に十時兵馬惟恭を選出しました。
そして藩政改革では、てはじめに兵制を改めています。
さらに藩政改革は統治機構にもおよび、明治3年(1870)10月23日には立花氏の柳川再封以来続いてきた領内九組の大庄屋を廃し、権大属を任命しました。
さらに10月には柳川ではじめて種痘による天然痘予防成功した戸上元達の建白により、医学校の賛成館を開設しています。
藩政改革の背景
どうしてこのように柳川藩が積極的な藩政改革を行えたのでしょうか?
時代の要請ももちろんありますが、それに加えて藩財政が大いに改善したことが挙げられます。
じつは、これまでに手掛けた振興策がようやく実をつけたうえに、新しい産業が生まれたことで、藩の収入は増加しました。
その新しい産業とは、イ草栽培と関連産業です。
幕末から干拓地で盛んとなったイ草栽培は、肥後八代に次ぐ生産量にまで発展を遂げます。
されにイ草を用いて花筵や畳表の製造が盛んとなり、新たな産業にまで発展していたのです。
花筵や畳表の製作には大きな設備投資が不要なうえ、農家の農閑期における副業にピッタリでしたので、急速に拡大して農村を潤していきました。
廃藩置県
こうして順調に藩政改革が進み、藩財政も好転して、さあこれからというときに、驚くべきことが起こります。
明治4年(1871)7月14日、廃藩置県により柳川藩が廃されて柳川県が置かれたのです。
これにより柳川布政所は柳川県庁と改められたうえ、大参事に壱岐の弟立花駿河親德、権大参事に杉森憲正・大村務が任名されました。
また、藩の教育施設は廃止されて、明治4年(1871)柳川城三ノ丸長久寺内に柳川県立洋学校を設立、学生約20人を集めて静岡県人の吉村幹を招いて英語教師とします。
さらに、旧藩主鑑寛は上京を命じられて、明治4年9月10日柳川を出て東京下谷の旧柳川藩上屋敷に居住することになりました。
いっぽう、新たに誕生した柳川県も、明治4年(1871)11月14日柳川県・久留米謙・三池県と合わせて新設の三瀦県となり、わずか4ヶ月で消滅してしまいます。
こうして柳川藩は消滅し、立花家は柳川を去りました。
これから立花家と柳川はどうなってしまうのでしょうか。
次回は、旧藩主鑑寛の柳川帰還をみてみましょう。
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