前回みたように柳川藩は消滅し、立花家は柳川を去りました。
これから立花家と柳川はどうなってしまうのでしょうか。
今回は、旧藩主鑑寛の柳川帰還をみてみましょう。
柳川城炎上
立花親雄(壱岐)は近いうちに再び鑑寛一家を柳川に迎えられる時期が到来すると確信し、柳川にある立花家の邸宅・宝物・私財・私有田などを処分することなく厳重に守りました。
そんななか、明治5年(1872)1月18日原因不明の火災により柳川城は天守閣以下の建物が焼失してしまいます。
一説によると、立花家の宝物を新政府に没収されないために焼失したことにしようとして城に火を放ったともいわれ、あくまでも立花家のためを思っての行為だったのでしょう。
また、城の石垣も、その後まもなく六十町開の干拓堤防用石材に使用され、内濠も埋め立てられてしまいました。
士族反乱の防止
新政府は中央集権国家をつくるために、版籍奉還によって幕藩領主から土地と人民に対する支配権を没収します。
さらに、徴兵令を発布して旧武士階級の武力独占を廃止したうえ、秩禄処分をおこなって武士の家禄を廃止して士族の収入減をなくしました。
このような新政府による強硬策は、士族に大きな不安と不満が巻き起こったのは当然といえるでしょう。
これは、とくに討幕に積極的に参加した諸藩で激しく、ついには爆発することになったのです。
たしかに、命を懸けて討幕で戦った結果、恩賞などの見返りがないばかりか、その地位や収入源をなくされたのですから、彼らが怒るのももっともといえるでしょう。
こうして明治3年(1870)2月に長州藩で奇兵隊を中心に脱藩騒動が、さらに4月には雲井辰雄らの反乱と、不平士族による反政府運動が激化します。
反政府煽動事件
この動きは筑後国にも波及、長州の脱藩騒動にかかわった大楽源太郎が脱藩して九州に入り、新政府への反対運動を柳川や久留米で先導したのです。
これに、東京奠都の反対運動をしていた柳川藩士古賀十郎をはじめ、公家愛宕通旭・外山光輔、熊本藩士高田源兵衛、久留米藩士小河真文らが賛同し、新政府を打倒しようとしたのです。
この動きをいち早く察知した十時雪斎は、すぐさまこれを排斥した結果、古賀十郎は検挙されて東京に移送されます。
そして明治4年(1871)12月3日、新政府はこれら反政府煽動事件の容疑者を一斉に処分し、翌日古賀十郎は斬首されたのです。
こうして十時雪斎らの活躍もあって、柳川藩では不平士族の反乱は未然に防がれたのですが、周辺地域での反乱は続きます。
その後、明治7年(1874)2月の佐賀の乱をはじめ、明治9年(1876)10月下旬には熊本県の神風連で乱、福岡県で秋月の乱、山口県で萩の乱、さらに明治10年(1877)西南戦争と、不平士族の反乱が相次いだのです。
しかし柳川藩では十時雪斎や立花壱岐親雄の働きかけもあって、士族が反乱を超すことはありませんでした。
立花鑑寛の柳川帰還
こうした中、柳川藩最後の藩主・鑑寛は、明治7年(1874)に隠居します。
じつは鑑寛は長年にわたって、柳川への帰郷を望んでいたのですが、不平士族の反乱が相次いでいたこともあって認められませんでした。
そしてついに、明治11年(1878)7月に柳川への寄留が許されたのです。
こうして鑑寛は柳川にかえり、以後は柳川の「御花」で暮らします。
その後、明治39年(1906)5月に従二位に叙せられ、明治42年(1909)1月24日、愛してやまなかった柳川の地で81歳の生涯を閉じました。
その後、鑑寛の跡を継いだ寛治もまた柳川に帰還することになるのですが、それはまた次回みることにしましょう。
《廃藩置県と立花鑑寛の柳川帰還については、『三百藩家臣人名事典』『江戸時代全大名家事典』『藩史大事典』『幕末維新史事典』『華族総覧』にもとづいて執筆しました。》
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