前回は新宮の町についてみてきましたが、新宮の繁栄を支えたのが熊野川を使って山々から集められた熊野材でした。
そこで今回は、この熊野材についてみてみましょう。
熊野材の保護
スギとヒノキを主とする熊野材は、古くから寺社や城郭の建材として用いられてきたので、かなり乱伐されていました。
このため、徳川頼宣が入封すると、山林保護の政策を確立していきます。
一例をあげると、頼宣入封直後の寛永13年(1636)に出した「奥熊野山林御定書幷に先年の壁書」をみると、留木・留山に関する条項がほとんどを占めているのです。
しかしそのいっぽうで、こうした保護政策は、藩有林の保護を重んじて私有林の保護を軽視する傾向を生むことになりました。
この傾向は、いしだいに様々な弊害を生みましたので、藩は保護政策を緩和する方向に進まざるを得なくなったのです。
すなわち、一定の制限を加えたうえで伐採させて、かわりに運上銀を収めさせることにルールを変更しました。
そして伐採と併せて、植林思想の普及や造林の奨励、空閑地の利用といった民業の育成に勤めることにしたのです。
とくに新宮水野家領では、櫨の木を植えさせて木蝋を採ることを奨励しました。
熊野材の江戸進出
新宮と江戸との熊野材の取引は、慶安3年(1650)に新宮の問屋に対して江戸送り材が規制されることから、規制以前に取引が始まっていたことがわかります。
この背景には、新宮が大坂と江戸を結ぶ海路上にあるうえに、有力な廻船問屋があったこと、さらには紀州徳川家と江戸幕府が特別な関係があったことなどが見て取れるでしょう。
そしてもちろん、熊野に質・量ともに抜群な森林資源があったことが根本となっているのです。
またいっぽうで、江戸で人口が急増したことや、江戸でうち続いた火事によって、木材の需要が増大し続けたことも見逃せません。
材木問屋
木材をあつかう問屋の出現は、はやくも元和年間(1615~24)と推定され、寛文4年には売問屋・清右衛門ほか20名の名が知られています。
これがさらに、延宝9年(1681)には25名にまで増えた問屋が、取引の定めを決めて連判しています。
江戸時代の後期、文政10年(1827)の「申渡書」をみると、「仲買座」が記されていることから、当時の流通機構が、山主―仕出人(本主)―問屋―仲買人というルートが出来上がっているのがわかります。
そして、ここにある問屋も仲買も世襲の株制度となっているのです。
文政2年(1819)には、卸売株が新たに設けられて、卸売をおこなう人数が限定されるとともに、年々相応の冥加金を領主に上納することと定められて、新規参入を許さない体制が出来上がりました。
熊野川の役割
こうして木材の移出について安定した制度ができると、熊野川奥から筏に組まれて送られてきた膨大な量の材木は、熊野川河口に集積されることとなります。
そして、河川交通が発達すると、川原では日用品はじめいろいろな物が売られるようになったうえ、旅人宿までできて大いににぎわうこととなりました。
こうして川原町が発展し、大いににぎわいを見せたことは前回にみたとおりです。
そこで次回は、新宮の繁栄を支えたもうひとつの産業、廻船についてみてみましょう。
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