前回みたように、長州征伐は完全に失敗して幕府の権威は地に落ちてしまいました。
風雲急を告げる状況に、水野忠幹はどう対処するのでしょうか。
そこで今回は、大政奉還から鳥羽伏見の戦いをみてみましょう。
大政奉還と王政復古
慶応3年(1876)10月14日、15代将軍徳川慶喜は、前土佐藩主山内容堂の意見を入れて、大政奉還を行います。
この時、紀州藩は京都における慶喜の動きを逐一知らされていたものの、何ら手を打つことはありませんでした。
というのも、藩内が大政奉還について賛否両論に分かれて、藩主徳川茂承がこれをまとめることができなかったのです。
いっぽう、慶喜からは茂承に上洛を促す書状がたびたび届けられますが、茂承は和歌山から動きません。
慶喜からしてみると、長州征伐芸州口で見せた紀州藩のもつ軍事力がどうしても必要だったのでしょう。
茂承が慶喜の要請にこたえられない中、ついに12月9日に朝廷は王政復古を宣言し、慶喜の辞官と納地(領地返納)が決定します。
いっぽう慶喜は、辞官・納地に応じることなく、主導権の回復を目指して京を離れて大坂に移りました。
鳥羽伏見の戦い
こうして討幕派が固める京と、旧幕府派が終結した大坂の間に緊張状態が生じたのです。
そこで西郷隆盛が江戸で挑発活動を行った結果、薩摩藩邸焼討ち事件が発生したことをきっかけに、旧幕府側は一気に挙兵して京に攻め上る行動に出ます。
そしてついに、慶応4年(1868)1月3日に鳥羽伏見の戦いが勃発したのです。
帰趨のはっきりしない和歌山藩には、1月4日には慶喜から「討薩長」の写しが届けられます。
いっぽう、同日には朝廷から、前年末から高野山に陣をはる鷲尾侍従の軍と共同して大坂城攻略を命じられました。
藩主茂承がむつかしい選択をまえに決断することができないでいたのです。
そうしたなか、いち早く戦いの最中にもかかわらず、慶喜は軍艦で江戸へと逃亡すると、旧幕府軍は薩摩・長州軍を中心とする新政府軍に大敗しました。
和歌山藩による旧幕府軍支援
紀州へ幕府敗北の正確な情報が伝わったのは、ようやく6日夜から7日未明にかけて。
長州征伐時のことを考えると、「朝敵」の汚名が着せられる可能性があるため、藩は積極的な行動をとることができなくなります。
そんななか、8日朝からは、会津や桑名・忍藩など、旧幕府側の諸将が敗兵を率いて御三家の和歌山藩をたよって次々と落ち延びてきました。
最終的に、紀州に逃れてきた旧幕府軍は、5,700人以上にもなったのです。
和歌山藩は役所や寺院を宿所に提供して保護したうえ、藩船明光丸や浦々の廻船を借り上げて送還を行います。
さらに、藩は沿岸の要地へ旧幕府軍兵が来ても動揺しないよう通達を出して、食事などの接待をするとともに、その料金を受けとるよう指示して、官民一体となって旧幕府軍敗走兵の脱出を手助けしたのです。
先に見たように、これまでの経緯から「朝敵」ともなりかねない和歌山藩は、旧幕府への協力というよりも、御三家の一つとしてせめてものつぐないであったのかもしれません。
いずれにせよ、新政府に露顕すると非難されるのは明らかですので、一切を秘密裏に行ったのです。
新政府から下問があっても、10月12日には京都留守居役が、「8日昼ごろから旧幕府兵が和歌山へ入ってきたが、泉州へ立ち退かせた。その後は国境を閉ざして入らせていない」と報告したのです。
しかし和歌山藩のとった行動は新政府に筒抜けでしたので、いくら朝廷への恭順を誓おうとも嫌疑が深まるばかりでした。
徳川茂承上洛
朝廷からの嫌疑が深まるなか、江戸藩邸を中心に薩長両藩に対抗すべきとの意見も根強く、藩論は容易にまとまりません。
そんななか、藩主茂承は慶応4年(1868)2月13日に朝廷への誠意を示すために上洛します。
そこで和歌山藩は、新政府への献金命令や、奥州征討軍への出陣を求められるなど、かなりの難題をつきつけられたものの、なんとか朝敵となることは回避できたのです。
その裏には、じつは水野忠幹の行動がありました。
朝廷から嫌疑を受けた和歌山藩のために、いちはやく1月9日に上洛して藩主茂承の誠意を表し、1月14日には三カ条の弁明書を朝廷に提出していたのです。
こうして嫌疑が晴れた茂承は、12月になってようやく和歌山への帰国が許されました。
鳥羽伏見の戦い後の対応をめぐって窮地に立つことになった和歌山藩紀州徳川家ですが、水野忠幹による懸命の工作も效を奏して危機を乗り越えることができました。
じつはこれが忠幹にとって和歌山藩付家老として最後の大仕事となったのです。
そこで次回は、新宮藩の誕生をみてみましょう。
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