前回は廃藩置県により、上京の命を受けて新宮を去るまでの水野忠幹をみてきました。
そこで今回は、上京した忠幹についてみてみましょう。
深川三好町
上京した忠幹は、一時期市ヶ谷浄瑠璃坂の旧上屋敷には住んだようですが、まもなく深川三好町2番地に移りました。(『官許貴家一覧 元武家華族之部』雁金屋清吉、1873)
本来なら大名華族はかつての藩上屋敷を下賜されるのが通例ですので、忠幹は新宮藩浄瑠璃坂の上屋敷を下賜されて、そこに住んでいるはずでした。(第56回「新宮水野家浄瑠璃坂上屋敷跡を歩く」参照)
ところが、明治9年(1876)刊行の「明治東京全図」をみても、かつての上浄瑠璃坂の屋敷はそのまま町地に改変しているところのようです。
これらの事実から、いったん浄瑠璃坂の旧上屋敷を下賜されたものの、忠幹の都合により処分して、深川三好町の屋敷に移ったとみてよいでしょう。
ちなみに、この三好町時代の明治10年(1877)9月1日に、待望の嫡男忠宜が生まれています。
久松家浜町邸の売却
ところで、旧伊予国松山藩主の久松家は、明治5年(1872)に当主・久松定昭の療養用のため、三田の旧藩邸を処分して日本橋区浜町の屋敷を購入しましたが、その元の所有者が水野忠央となっています。
この時、すでに慶応元年(1865)に忠央は死去していますので、忠幹のことを指すと考えてよいでしょう。(『愛媛県史』『愛媛県の歴史』による、久松松平家編「松山藩消滅」「久松伯爵浜町邸を歩く」参照)
ここで少し事実関係を整理しておきましょう。
じつはこの場所は、嘉永年間は出羽国山形藩下屋敷で、切絵図には水野和泉守(忠精)の名が記されています。
その後、水野宗家は国替えや藩邸の移動があり、この地から移りました。
そのあとの経緯は不明ですが、『角川日本地名大辞典』によると、新宮水野家がこの土地を手に入れて別邸を設けていたのです。
別邸は抱屋敷だったようで、明治維新後も新宮水野家の所有となっていました。
そして、この私邸を明治5年(1872)に久松松平家へ売却したのです。
かつて久松家は新宮で建造した第二丹鶴丸を譲った先でもあり、両家の間にやり取りが続いていたのかもしれません。(第23回「丹鶴丸」参照)
新宮物産商事
ここまで見てきたように、水野忠幹は、市ヶ谷浄瑠璃坂の邸宅や、日本橋浜町の私邸を売却して、多額の資金を用意しました。
この資金を忠幹は何に使ったのでしょうか。
その答えは、『江東区史』に記載されていますので見てみましょう。
「旧新宮藩主水野忠幹は深川三好町に新宮材専門問屋を開業する」
じつは、江戸の町に集められる材木の約三分の一が熊野材でした。(第15回「熊野材」参照)
しかも東京奠都後には東京で西洋建築への建て替えなどにより建築ブームが起きて木材需要が増していたのです。
こうしてみると、忠幹の目の付け所自体は悪くなかったといえるでしょう。
新宮物産商事
しかし忠幹の商売は、「「武士の商法」のためか長続きせず、のちに新宮物産商社として松井浅次郎に継承された。」(『江東区史』)
このように、忠幹は事業に失敗したのです。
忠幹の事業の失敗の原因はどこにあるのでしょうか。
もちろん、商売についての知識や技能が不足していたことはいうまでもありません。
これに加えて、もう一つ重要な事実が考えられます。
ここで思い出してほしいのは、江戸時代に新宮水野家に与えられていた特権の数々です。(第16回「熊野廻船」参照)
伊豆下田のお番所における積荷や手形などの吟味、江戸入港時の鉄砲州の船与力衆による改め、さらに入船銀を賦課されるなどの面倒な手続きがすべて免除されていました。
そのうえ、入船銀までも免除されるという特別な待遇を受けていたのです。
この特権は炭ほどではないものの木材にも適用されることで、新宮水野家は大きな利益を得ていました。
もちろん、明治に入ってこれらの特権はすべて失われましたので、江戸に流通する木材の三分の一を占めるといわれた熊野材の優位性は危ういものとなっていたのです。
忠幹の事業力では、この特権廃止によるビジネス環境の大きな変化に対応できるはずもありません。
また、もともと江戸・東京での材木市場は異常な高騰と暴落を繰り返すきわめて投機的なものでしたので、参画したほとんどのものが失敗してすべてを失ってきたのです。
こうして江戸時代には多くの財を誇っていた新宮水野家は、事業の失敗により、その多くを失ったとみてよいでしょう。
次回は、水野男爵家の誕生と、忠幹のその後をみてみましょう。
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