前回まで水野男爵家初代、新宮水野家10代水野忠幹についてみてきました。
前回や第1回「「八甲田」から新宮へ」でもみたように、忠幹がその未来を嘱望した長男忠宜は、八甲田山雪中行軍遭難事故によって急逝したのです。
八甲田山雪中行軍遭難事故については、この事故を題材とした映画「八甲田山」と新田次郎の小説『八甲田山死の彷徨』が一大ブームとなったことで、誤ったイメージが流布しています。
また、これらの作品では、水野忠宜中尉について、詳しくは触れていないのです。
新宮水野家の歴史をたどるなかで、どうしても水野男爵家嫡男・水野忠宜中尉の最後をみるとともに、どうしてここで命を落としたのかを確認する必要があります。
そこで今回は、陸上自衛隊士官として八甲田山での演習経験を豊富に持つ伊藤薫の『八甲田山消された真実』を主とし、事件の報告書類を用いて実際の事件の真実に迫っていきましょう。
行軍前史
まずは伊藤薫『八甲田山消された真実』によって八甲田山第五連隊雪中行軍遭難事故発生までの経過をたどってみましょう。
明治4年(1871) 青森県に旧津軽藩士100名余で「二十番大隊」が設置される。
明治5年(1872) 歩兵第五聯隊が筒井村に設置が決定される。
第八師団設立、弘前に第三十一聯隊が設置される。
こうして、青森の第五連隊と弘前の第三十一聯隊は、同じ第八師団下ながらライバル関係になったのでした。
計画の背景
その一方で、明治28年(1895)に三国干渉が起こってからは、日本はロシアを仮想敵として軍備拡張を進め、軍は戦闘力の向上を図っていたのです。
このロシアとの戦いの舞台に予想されたのが満州だったうえに、ロシアは極寒における戦闘になれているのは当然のこと。
このため、満州の冬の厳しさが日本本土とは比べものにならないことが大きな問題と考えられました。
そこで、八師団の地位・役割として、積雪地における戦闘行動の研究が求められたのは自然の成り行きといえるでしょう。
このような背景があって、明治31年以降の五聯隊と三十一聯隊は雪中訓練を活発に行うようになったのです。
福島大尉の岩木山麓雪中行軍と五連隊の失態
そんななか、明治34年(1901)に歩兵第三十一聯隊第二中隊長福島泰蔵大尉が岩木山麓雪中行軍を実施し、数々の困難を乗り越えて一応の成功をおさめます。
じつはその内容は無謀でお粗末な内容で、とても演習とはいえるものではなかったのですが、この結果が壮挙として師団長から高く評価されました。
いっぽうの青森歩兵五聯隊は、同年3月1日付の東奧日報に訓練での失態が報道されるという衝撃の事態が起こります。
その内容は、雪中行軍で訓練不足により、橇が埋まって進まなくなったところを、地元住民に助けられたというものでした。
そこで、汚名を挽回すだけでなく、ライバルの弘前聯隊に勝つためにも、明治35年(1902)の雪中行軍について、「絶対に人馬の往来しない深い雪を踏んで、道路のわからない所へ行こう」(小原忠三郎伍長の証言)と、訓練基準を引き上げたとみられます。
行軍準備
こうした中、明治34年(1901)の岩木山麓雪中行軍成功により気を良くした福島大尉が、翌明治35年(1902)1月後半に無謀にも八甲山越え雪中行軍を計画します。
そして実際に1月20日に出発することに決まったのでした。
いっぽう、これを1月16日ころ知った五聯隊長津川謙光中佐が、福島隊が田代の到着に先んじるために、1月22日に八甲田山の田代に向かって一泊行軍を行うよう命令します。
この命令を受けて、師団からの命題となっている「雪中露営」の研究のため、歩兵第二連隊第二大隊長山口鋠少佐あるいは同第五中隊長神成文吉大尉のいずれかが田代での雪中露営の計画を立案しました。
計画の根本的欠陥
じつは、田代には詳しい地図(路上測図)がないうえ、しばらく訓練も実施していない状態でした。
信じがたいことに、田代は五聯隊にとって全く未知の場所であったにもかかわらず、全行程の偵察などの必要な措置は取られることはなかったのです。
これは、五聯隊は未知の場所に最も厳しい気象条件の中、行軍を強行する計画建てたのですから、いかに無謀であったかがわかります。
さらに、中隊の一泊の雪中行軍だと聯隊長の判断で実施できるので、師団長の承認は得ていませんでした。
そのうえ、わずか2・3日の準備期間で、しかも出発日は軍旗拝受の記念日という「お祭り」明けという、これだけでもかなり無茶な計画だったのです。
ここまで青森五聯隊による八甲田山雪中行軍計画が作られる背景についてみてきました。
この段階で決められた計画の大枠は、すでに致命的ともいえる問題点を複数抱えたものだったのです。
しかし、上官からの命令が下された以上、これを実行するのが軍人ですので、大枠段階での問題が検討されることもなく、具体的な計画が作成されたのです。
そこで次回は、作成された演習計画がどのようなものであったのか、みてみましょう。
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