前回は新宮水野家原町下屋敷跡につくられた成城学校についてみてきました。
そこで今回は、この下屋敷跡を歩いてみましょう。
新宮水野家牛込原町下屋敷跡を歩く
前回は成城中・高校正門前付近まで歩いてきました。
切絵図によると、成城学校の敷地の東端にある通用門のすこし西側、正門との間付近が藩邸の正門のあった場所です。
成城中・高校の正門から西に歩くと、第69回で見た「日本体育会発祥之地」碑があります。
さらに西に向かうと、丁字路に行き当たりますので、これを左に折れて南に進みましょう。
みえてきた公園に沿って進み、都営団地の前を通って道なりに進みます。
じつはこの道、切絵図にも描かれたクランク状の道ですので、江戸時代からの歴史的遺構です。
クランクを抜けて、最初の丁字路を左に曲がって進むと、成城中・高校通用門を経て、牛込成城幼稚園がみえてきました。
この幼稚園部分が、藩邸の南西部分にあたるところです。
ここで、幼稚園と東京女子医科大学巴研究教育棟の境界に注目してください。
訪れたときは教育棟がまだ工事中でしたので、入り口から望むと、五段に積んだ切り石の立派な石垣がみえてきました。
高さは1mほどでしょうか、設立年代は明治ごろのようです。
ひょっとすると、成城学校建設時に築かれたものかもしれません。
石垣をみたところで、先ほどの公園に戻りましょう。
この公園は、「新宿区水野原児童遊園」、入り口の銘は「新宿區」とあって、歴史を感じる公園、しかも名前に水野を冠しているのです。
この公園で休憩しながら、新宮水野家原町拝領下屋敷についてみてみましょう。
新宮水野家原町拝領下屋敷
「武家屋敷名鑑」によると、慶長年間(1596~1615)から幕末まで、ほぼ江戸時代を通じて新宮水野家下屋敷がこの地に置かれていました。
面積は、元禄8年(1615)から宝暦12年(1762)までは13,420坪、安政2年(1855)には13,770坪と、若干の変動が見られます。
この地を水野家が拝領したいきさつについては、『東京市史稿 市街編49』に次のような逸話が残されていますので、現代語に意訳してみます。
「市ヶ谷原町下屋敷は、対馬守重仲が大御番頭を務めていたころ、徳川家康が秀忠を連れて鷹狩りをしていた時に、徳川家康が杖で指図を示してこの地を重仲に下賜しました。
そのころの原町は、いちめん茅が生い茂る野だったといいます。」
この故事にちなんで、このあたりを「水野原」「水野が原」(みずのがはら)と呼ぶようになったと伝えられているのです。
水野原が戸山から延びる舌状の高まりであることがわかります。 「六十六番地」部分が新宮水野家原町下屋敷跡地です。崖と細い谷が描かれています。
屋敷付近の地形
ここで藩邸付近の地形をみてみましょう。
散策の初めに見たように、敷地の東側は崖、南東にも石垣がありました。(第67回「新宮水野家原町下屋敷跡を歩く・前編」参照)
じつは、ここから300mほど南に進むと、東京女子医科大学の南には、大きな崖が東西に連なっています。
つまり、藩邸付近を下端として、東京女子医大付近にまで戸山から東に張り出して延びる台地状の地形となっているのです。
これは河川の開析が進んでできた地形で、台地上には水が乏しく、耕地化が難しかったために、茅の生い茂る野が慶長年間まで残っていたのでしょう。
家康から拝領したため、このなにもなかった原っぱに新宮水野家が屋敷を築いたので、水野原と呼ぶようになったのです。
この地名が、現在いる公園の名となり、また公園から東京女子医科大学へと伸びる「水野原通り」にその名を残すことになりました。
ここまで新宮水野家原町下屋敷跡を歩いてみてきました。
そこで次回は、この屋敷について、もっと詳しく見てみましょう。
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