「明石原人」発見の日
4月18日は、昭和6年(1931)に直良信夫が「明石原人」腰骨の一部を発見した日です。
アマチュア考古学者の直良信夫(あおらのぶお)は、病気療養していた兵庫県明石市西八木海岸で、崩れた土から骨一片を発見したのです。
また、「石器」や動物の化石も見つかったことから、この骨を旧石器人のものと考えた直良は、論文を発表するとともに、骨を東京帝国大学人類学教室 松村瞭主任に送って分析を依頼します。
ところが当時、縄文時代以前には日本に人は住んでいなかったというのが定説で、比較する資料もないことから、東京帝国大学は結論が出せませんでした。
そのため、骨の石膏模型を作ったうえで直らに返却します。
その後、骨は東京の直良自宅に保管されていましたが、東京大空襲で焼失。
いっぽう、直良は専門家や世間から激しい嘲笑や罵倒、さらには中傷を受けますが、この問題解決を後世にゆだねるために、学会の雑誌「人類学雑誌」に掲載したのです。
昭和23年(1948)、東京大学教授で人類学者の長谷部言人が、東京大学に残っていた骨の写真と石膏模型を検証した結果、この骨が原人のものと発表し、「明石原人」と命名したのです。
長谷部の発表は大きな反響を呼び、「原人ブーム」を巻き起こします。
しかし、この骨が原人のものなのかどうかは、現物が焼失したこともあって決着がついていません。
ただ、日本に原人がいたはっきりわかる資料はいまだ見つかっていないのが現状です。
現在、発見現場の明石市西八木海岸には、明石原人発見の碑が建てられてました。
ところで、直良信夫の物語はこれで終わりではありません。
まずは直良信夫の経歴を振り返りましょう。
直良は、明治35年(1902)大分県臼杵市で生まれました。
小学生の時に東京へ移り、大正9年(1920)岩倉鉄道学校を卒業して農商務省臨時窒素研究所で働きながら、貝塚や土器の研究を続けたのです。
そうした中、昭和6年(1931)に問題の骨を発見します。
専門家や世間からの誹謗中傷にもめげず、戦後は早稲田大学に入ると、獣類化石研究で学位も取得し、昭和35年(1960)には早稲田大学教授に就任しました。
また、『日本旧石器時代の研究』(1954)、『日本古代農業発達史』(1956)など、多くの著書を世に出しました。
直良の不屈の研究者魂は多くの人の心をとらえ、松本清張は直良信夫をモデルとした小説『石の骨』を発表し、直良を顕彰する一方で偏狭な学会や世間に警鐘を鳴らしています。
いっぽう、「明石原人」によって明石市の名を広く知らしめたことを賞して、昭和60年(1985)に明石市から直良に明石市文化功労章が送られました。
式典に代理で出席した長女で作家の三樹子は、受賞後すぐさま病床の直良に生涯でただ一度の賞を手渡します。
賞をみてかすかにほほ笑んだ直良は、その翌日の11月2日に83歳の波乱に満ちた生涯を閉じたのでした。
(この文章は、明石市文化博物館Webサイトと、『「明石原人」とは何であったか』春成秀璽(NHKブックス、1994)、『国史大辞典』「明石原人」「直良信夫」「長谷部言人」の項、『日本史大事典』「明石原人」の項、『日本近現代人名事典』「直良信夫」の項を参考に執筆しました。)
きのう(4月17日)
明日(4月19日)
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