葛飾北斎の亡くなった日
5月10日は、1849年(嘉永2年4月18日)に浮世絵師の葛飾北斎が亡くなった日です。
北斎は90歳で亡くなる直前まで創作を続け、まさに生涯現役を貫いた人、そこでまずはこの秘訣を探るためにも、北斎の歩みを振り返ってみましょう。
北斎の画歴
葛飾北斎は、宝暦10年(1760)9月23日に江戸・本所割下水、現在の墨田区で川村某の子として生まれました。
4歳ころに幕府御用鏡磨師・中島伊勢の養子となり、14歳ころには彫師につくなど苦労しています。
19歳で当時一世を風靡していた勝川春章に入門して本格的に絵の修行をはじめました。
安永5年(1779)に役者絵を手はじめに、黄表紙や相模絵なども手掛けるようになります。
寛政4年(1792)に師・春章が亡くなると勝川派を離れて、狩野融川に狩野派、三代目堤等琳に漢画を学んで習得しました。
さらに、住吉広行に土佐派を学び、俵屋宗理の名跡を継いで、寛政7年(1795)には二代目宗理を名乗ります。
それでも画業の探求は止まず、司馬江漢の洋風画や中国画の技法を研究して取り入れて、ついに独自の一大家風を作り上げたのです。
また、北斎の画域は極めて広く、風景画・花鳥画・歴史画・戯画・美人画と、ほとんどなんでも描くといってよいでしょう。
北斎の作品は、『富嶽三十六景』『諸国名橋奇覧』『千絵の海』『百人一首うばが絵とき』などの浮世絵、戯作者・曲亭(滝沢)馬琴とコンビを組んで挿絵を担当した『新編水滸画伝』『椿説弓張月』、『東遊』『隅田川両岸一覧』などの絵入狂歌本、絵手本『北斎漫画』、絵本『富嶽百景』など、まさに多種多彩です。
北斎の臨終と影響
北斎は多数の弟子を育て上げた結果、弟子たちは一派を為し、葛飾派として名門歌川派と江戸の浮世絵界を二分するまでになっています。
また、北斎は弟子ではないものの、歌川国芳や国直、渓斎英泉をはじめ、ゴッホなど後期印象派の画家たちなど、じつに多くの絵師に影響を与えているのです。
こうして世界的に有名な絵師となった北斎は、嘉永2年4月18日(1849年5月10日)、浅草聖天町において娘のお栄に看取られて90年の生涯を閉じました。
葬儀は門人や旧友たちがお金を出し合って行い、見送りには100人ほどが集まったといいます。
辞世の句は「飛と魂(ひとだま)で ゆくきさんじゃ 夏の原」
北斎の引っ越し魔
いっぽうで、北斎は奇行に富んだ人物としても知られています。
一例をあげると、次々と号を変えたことで、北斎のほかにも、可候・画狂人北斎・画狂老人・前北斎為一・卍・不染居為一など号を30回以上改めました。
その理由は定かではありませんが、一説には人々の目をくらまして自分の作品とわからないようにするためとも言われます。
また、93回も引っ越したことでも有名です。
じつはこの引っ越し癖、嫁ぎ先から戻った娘のお栄と絵を描くことのみに集中して、習作を書き散らし、食べたゴミも投げ散らかして、部屋が傷んだり汚れたりするたびに引っ越したといいます。
最後に越した家は、以前暮らして気に入っていた借家でしたが、入居すると自分たちが散らかしたままだったのをみて、さすがに引っ越し癖を改めたといいます。
北斎の引っ越し癖もまた、絵を描くことのほかは何もしたくないという意思の表れなのでしょう。
北斎の暮らし
北斎は、食べ物にも興味がなかったことも知られています。
自宅では煮炊きを行わず、そのため食器すらないありさまで、食べ物はすべて近所からもらい、生魚をもらうと調理が面倒なので他者にあげてしまったそうです。
酒も飲まず、茶は好きだったようですが、安いものばかりを飲んでいました。
このように、食事や生活習慣をみても、健康にかかわるものはほとんど見えません。
また北斎は金銭にまったく無頓着でした。
画料は相場の二倍と高給でしたが、金銭の管理を全く行うことなくいい加減だったので、生涯貧乏だったといいます。
これも、一般的に生活で最も重視する金銭管理にすら時間を使いたくないということなのでしょう。
北斎の人生
こうしてみてくると、北斎は人生のすべてを絵に捧げていることがわかります。
絵に対する尋常でない情熱とバイタリティは、70年にわたる絵師生活全般を通じて燃え続けたのです。
北斎は臨終の際、「天があと私の命を5年くれたら、私は本当の絵描きになれただろう」とまだまだ画業完成への未練を抱きつつ亡くなりました。
北斎の長生きと生涯現役の秘訣は、まさにこの絵画への情熱だったのかもしれません。
(この文章は、『葛飾北斎伝』飯島虚心(蓬枢閣、1893)、『葛飾北斎』歴史文化ライブラリー91、永田生慈(吉川弘文館、2000)、『浮世絵大系』と、『国史大辞典』およびWikipediaの関連項目を参考に執筆しました。)
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明日(5月11日)
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