演出家・土方与志の亡くなった日
6月4日は、昭和34年(1959)に演出家の土方与志が亡くなった日です。
そこで土方の生涯を振り返ってみましょう。
襲爵まで
土方は、明治31年(1898)4月14日、東京で土方久明と加藤泰秋子爵の四女・愛子を母に、長男として生まれました。
ちなみに、祖父は土佐勤王党に入って国事に奔走、維新後は農省務大臣や宮内大臣を歴任し、伯爵を授与された土方久元です。
土方は、はやくも中学時代に演劇活動をはじめると、学習院高等科在学中の大正5年(1916)には、近衛秀麿、三島通陽らと「ともだち座」を結成するかたわら、自宅にライブラリーをつくり、舞台装置や照明の研究に没頭します。
このころ、友達座で音楽を担当していた近衛の紹介で山田耕作を紹介されて、仕事を共にする仲間となりした。
大正7年(1918)11月に祖父久元が危篤となったため、三島の妹・梅子と急遽結婚して一家をかまえ、襲爵の準備に入りましたが、じつは父・久明は土方が生まれてすぐに自殺して亡くなっていたのです。
そして結婚式の翌日に久元が亡くなり、与志が伯爵を襲爵します。
築地小劇場
大正8年(1919)東京帝国大学文学部国文学科に入学。
その後、山田の推薦を受けて小山内薫の弟子となり、大学を卒業すると、明治座などの舞台で演出を学びました。
大正11年(1922)11月、演劇研究のためにドイツに留学、アルトゥル・ライヒに演出を学びます。
そして関東大震災の報をきいて帰国し、小山内の協力を得て、私財をなげうち東京の築地1丁目に定員400人の「築地小劇場」を建設しました。
築地小劇場は、劇場・劇団は、小山内や友田恭助、汐見洋らと同人組織で運営し、土方は活動の中心となって精力的働いたのです。
こうして築地小劇場は、日本の近代演劇運動の唯一の拠点となり、学生や労働者の熱狂的支持を受けました。
劇団からは、田村秋子、山本安英、滝沢修、千田是也らの俳優を輩出します。
この築地小劇場を舞台に小山内や青山杉作らと行った演出活動は多彩で、日本近代演劇に新たな風を吹き込み、土方は「築地小劇場は未来のために存在する」と宣言したのです。
ソ連への亡命
ところが、昭和3年(1928)に小山内が急死すると、精神的支柱を失った築地小劇場は混乱をきたし内紛を起こしてしまいます。
そして、昭和4年(1929)には、土方を支持する丸山貞夫、山本安英ら6人の俳優が築地小劇場を脱退して、ついに築地小劇場は分裂してしまったのです。
土方は新築地劇団で再出発したあと、紆余曲折の末、社会主義リアリズムへの道を歩みはじめました。
そして次第にマルクス主義に傾倒し、昭和8年(1933)4月、国際革命オリンピアードに日本プロレタリア演劇同盟(プロット)の代表としてモスクワへ派遣されます。
第1回ソヴィエト作家同盟大会に日本代表として参加しましたが、共産主義者としての活動が日本に伝わって、9月には爵位剥奪の処分を受けて、ソ連に亡命したのです。
昭和13年(1938)12月からモスクワ市立革命劇場演出部に所属となりますが、スターリンによる粛清が本格化して国外追放処分となったことで、昭和16年(1941)帰国と同時に治安維持法違反で逮捕、投獄されてしまいます。
戦後
昭和20年(1945)10月に出獄すると、翌年1月には日本共産党に入党し、演劇活動を再開しました。
昭和23年(1948)7月、中央演劇学校校長に就任すると、昭和25年(1950)には秋田雨雀の主宰する舞台芸術学院と合同して、その副校長に就任します。
昭和31年(1956)7月、劇団舞芸座を結成、この間出獄から病床に就くまでの15年間に、「どん底」「人形の家」など演出を数多く手掛ける一方、『なすの夜ばなし』を執筆しました。
昭和34年(1959)6月4日に61歳で没すると、日本文化人会議より「日本平和文化賞」を贈られています。
土方与志の功罪
若くして師・小山内薫とともに、自ら進んで莫大な資産を投じて大正13年(1924)築地小劇場を創設し、日本近代演劇に新しい道を開いた功績は極めて大きなものがあります。
その一方で、昭和8年(1933)のモスクワ行は、華族でありながら共産主義者であることを内外に宣言したもので、その影響は計り知れないものでした。
皇室の藩屛となるべき華族が、天皇制を攻撃する共産主義者となった事実に、日本国民は衝撃を受けたのです。
折からスキャンダルが続いて、華族制度の改革や廃止が議論されていましたが、土方は「赤い華族」などと糾弾されて、華族制度の根幹を揺るがす事態に発展します。
こうして亡命同然にモスクワへ入り、共産主義者となった対価は重く、翌年に日本華族史上初となる爵位剥奪の処分を受けたのは当然のことでしょう。
演劇への情熱が土方を突き動かしていたとはいえ、彼が失ったものもまた極めて大きかったのです。
はたして土方は、祖父が築き上げた名誉の代わりに、いったい何を手に入れたのでしょうか。
(この文章は、『明治・大正・昭和 華族事件録』千田稔(新人物往来社、2002)および『国史大辞典』『演劇百科大事典』『日本史大事典』の関連項目を参考に執筆しました。)
きのう(6月3日)
明日(6月5日)
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