幕末の女性尊王家・松尾多勢子の亡くなった日
6月10日は、明治27年(1894)幕末の女性尊王家・松尾多勢子が亡くなった日です。
「松尾多勢子ってだれ?」って思う方も多いのではないでしょうか。
じつは島崎藤村の名作『夜明け前』でもたびたび登場して活躍が描かれていますし、2021年の早稲田大学入学試験で出題されたり、教科書に掲載されたりで、なにかと注目を集める人物です。
そこで、松尾多勢子の歩みを振り返って、なぜ彼女に注目が集まっているのか解明してみましょう。
国学との出会い
松尾多勢子(まつお たせこ)は、文化8年5月25日(1811年7月15日)に信濃国伊那郡山本村、現在の長野県飯田市に父・竹村常盈と母・幸との間に生まれました。
12歳の時、父の実家・北原家へ預けられ、寺子屋を主宰する従兄の因信に読書と和歌を習い、因信の妻から家事や養蚕、礼儀作法などを学びます。
そして19歳の時、伴野村、現在の長野県下伊那郡豊丘村の松尾佐次右衛門元珍(もとよし、号は淳斎)と結婚しました。
じつは竹村家も北原家も伊那谷の豪農・名家でしたが、松尾家も造酒屋を営む豪農だったので、多勢子は病身の夫に代わって家政を仕切り、使用人や小作人を管理したうえ、三男四女を産み育てたのです。
また、三十代後半からは歌会に出るようになり、夫とともに善光寺から越後、さらに江戸まで行って領主である美濃高須藩主松平義建公と面会するなど、数度にわたって旅を経験しました。
その後、飯田の歌人・福住清風や平田門下の岩崎長世に師事して、ついに文久元年(1861)8月には平田篤胤の没後門人となったのです。
上京以降
こうして平田学派の知識人と交流した多勢子は、安政6年(1859)の開港や、文久2年(1862)の和宮降嫁に触発されて、この年に夫の許しを得て単身上京を果たします。
京都では、神祇長官白川資訓の知遇をえたうえ、和歌を通じて宮中女官と交流し、独自のネットワークを築きあげると、これを駆使して公卿と志士との情報連絡役を務めたのです。
さらに足利三代木像梟首事件に関与、事件で多くの門人が捕縛されるなかで長州藩邸にかくまわれると、ここでも人脈を作ったうえに、天誅組を保護しています。
しかし、子どもらが上京して夫の病気を知らせたると、文久3年(1863)3月に伴野村へ戻りました。
その後、角田忠行や長谷川鉄之進をはじめとする京を追われた勤王志士たちが、多勢子を頼って落ち伸びてくると、松尾家で彼らをかくまったのです。
また、水戸天狗党が伊那谷を通行するときには、長男を交渉にあたらせて戦闘することなく通過させることに成功しました。
大政奉還がなると、戊辰戦争に三人の息子と娘婿を従軍させる一方で、みずからは再び上京し、岩倉家を拠点として志士たちの士官に奔走、「岩倉の女参事」「岩倉の斡旋婆」とまで言われたのです。
のちに帰郷して農業に従事するかたわら、松尾家の家産再建に尽力する日々を送ります。
晩年は、二男と長男、さらには孫の千振にも先立たれましたが、平穏な暮らしを送っていたとのこと。
82歳の時に皇后より白縮緬一疋を下賜され、明治36年(1903)6月10日に84歳で死去すると、正五位を贈られています。
多勢子の功績
多勢子が尊王攘夷運動で果たした役割は、総脳波の人々を幅広くつなぎ合わせたことにあります。
尊皇派の活動を支える一方で、和歌や国学の教養と豊富な資金力で京都の宮廷世界へと人脈を広げて、その広範な人脈から情報を収集し、伝達した役割は無視できません。
とはいえ、熱烈な平田門人として祭政一致の新政府を目指したことから、近代的な政府にその居場所はなかったのです。
しかし、伊那谷で平田派の豪農たちや多勢子の息子たちが、伊那谷で地域の名望家を目指したのとは対照的に、多勢子が広い視野を持ちつつ自ら行動して道を切り開いた点は、高く評価すべきでしょう。
また、幕末に活躍した女性たちが、夫や恋人の活動を支える立場であり、夫の死後にその活動を継承した例が多いのに対して、多勢子は夫とは独立して、みずから運動をおこしていった点も非常に特徴的といえます。
多勢子の評価
多勢子は、主婦の身でありながら、夫や家庭をないがしろにして政治運動に熱中する悪妻として非難されることもありました。
しかし実際は、多勢子は夫の理解を得たうえ、家政をおろそかにすることもなく、子どもたちの教育にも心を砕く女性だったのです。
明治時代の後半になって、多勢子の活動が評価されるようになると、一転して「良妻賢母」で愛国の女性として喧伝されることになったのでした。
逆に軍国主義が広がるなかで、「愛国的良妻賢母」の模範となって、多くの女性たちを束縛するのに利用されたのは、何とも皮肉な話です。
いっぽう、京都での多勢子は、ときに「田舎者の老女」であることを武器するしたたかな一面もあったといいます。
こうしてみると、高齢者の社会参加が問題となると同時に、女性活躍社会の実現が叫ばれる今日において、松尾多勢子はまさに理想的な女性といえるのではないでしょうか。
(この文章は、『松のほまれ』清水謹一(史山)(公論社、明治37年)、『松尾多勢子:郷土精華』市村咸人(文星堂、1917)、『伊那史叢書 第2篇』市村咸人(山村書店、1937)および『国史大辞典』『日本女性人名辞典』『明治時代史大辞典』の関連項目を参考に執筆しました。)
きのう(6月9日)
明日(6月11日)
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