前回見たように、浅草橋は江戸・東京の入り口として重要視されてきました。
ところがその一方で、短期間で次々と架け替えられてきたのは どうしてなのでしょうか?
今回はこの謎に迫ってみましょう。
【目次】その1:橋梁としての浅草橋とは? その2:浅草橋の先代たち その3:浅草橋受難の歴史 その4:現在の浅草橋に学ぶこと
浅草橋の重要性
ここで改めて、浅草橋の架かる場所を確認しておきましょう。
浅草橋がある場所は、江戸を代表する歓楽街であった浅草と、江戸・東京の商業の中心である銀座や日本橋とを結ぶ奥州街道(現・国道6号線、愛称:江戸通り)が神田川と交差する位置にあたります。
そのために、浅草橋には浅草見附が置かれるなど、江戸の北東方面、つまり陰陽道でいう鬼門にあたる極めて重要な入り口と見なされてきたのでした。
明治時代になって江戸が東京となっても、この状況に変化はありません。
そのため浅草橋が帝都東京の入り口かつ交通の要衝であったために、浅草橋は当時の最新最高の技術を見せる重要な橋とみなされていたのです。
想定を超える過酷な現実
その一方で、過酷な現実がありました。
当初は人馬が中心であった通行も、鉄道馬車、自動車、さらには市電が加わります。
東京の膨張も手伝って いつの時代も東京屈指の交通量を誇る場所となっていたうえに、橋設計時の想定を超えて交通量が激増してしまったのでした。
この結果、耐久期間100年以上を想定していた明治6年(1874)竣工の石造アーチ橋は、橋自身の重量オーバーという設計ミスも加わって、10年経たず変形してしまいます。
その次世代にあたる明治17年(1885)竣工の、当時わが国最新鋭だった錬鉄製ボーリングトラスト橋は、急増する交通量に対応できずあっという間に手狭となっったのでした。
というのも、設計当初から単線の鉄道馬車に対応していたのですが、すぐに鉄道馬車が複線化 したのに加えて東京電車鉄道(のちの市電)路線が計画されたことで、交通量が限界をはるかに超えてしまう事態となったのです。
そこで、明治31年(1899)7月、わが国最初の鋼鉄製アーチ橋に架け替えられました。
設計通りに この橋の上を、明治36年(1903)に東京電車鉄道(のちの市電)路線が開通しています。
ただ、明治17年の錬鉄製ボーリングトラスト橋は、橋梁自体には問題が無かったので、浅草橋から神田川の上流側にあった美倉橋に転用されて使われました。
関東大震災
ここまで見てきたように、当時の日本土木建設技術の粋を集めて作られた鋼鉄製アーチ橋も、美倉橋に転用された先々代も、関東大震災(大正12年(1923))では破損して使用できなくなってしまいます。
これに大変ショックを受けた橋梁技術者たちは、これを機に大いに研鑽に励みました。
その結果、永代橋や清洲橋など、現在も隅田川に見られる見事な橋梁群を作り上げるまでに日本における橋梁土木技術の水準を飛躍的にに高めていくことになったのです。
しかし、最先端の技術が誇示される表舞台は、神田川から隅田川へと移ってしまいます。
これは震災からの復興にあたって、東京のさらなる膨張と、「観客」を船でやってくる外国人旅行者にかえたためと言われています。
このように表舞台ではなくなった浅草橋、その後の運命はどうなったのでしょうか。
次回では、その後の浅草橋についてみていきたいと思います。
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