【節分】節分の歴史:①節分とは? / ②お水取りと追儺と陰陽道 / ③お正月と節分がいっしょに来る / ④ニュータイプ節分の誕生
以上で見た、新年行事と追儺と節分節、それがどのように融合したのでしょうか。江戸時代に移ります。
現在広く行われている鬼と豆まきがセットになった節分は、そのはじまりが室町時代『看聞御記』応永32年正月八日の節分の「鬼大豆打」行事の記事にみることができます。
同じく『今川大双紙』では、「節分の夜の鬼の大豆をも御年男きん(勤)ずる也」と、豆まきの役は年男が勤めるものだと記しています。
年越しの大掃除が終わった後にすぐ豆をまく、という現代では考えにくい状況ですが、江戸では平安時代前期の宇多天皇のころに始まった行事だという伝説が信じられていました。
こうして江戸では節分の夜を「年越し」と呼んで、年男が豆をまくようになります。
斎藤月岑『東都歳事記』には12月の条に「今夜尊卑の家にていり豆を散、大戟鰯の頭を戸外に挿す。豆をまく男を年をとこといふ。今夜の豆を服してまじなひとす。又今夜いり豆を己が年の員に一ッ多く数えて是を服す。世俗今夜を年越しといふ」と記し、現代に近い節分の姿が描かれています。
今の私たちから見ると、正月と節分が入り混じった不思議な光景が行われていました。
『東都歳事記』にはまた、江戸の寺社での節分行事の様子も描かれています。
亀戸天神では、青赤の二鬼が登場して巫(かんなぎ)と問答し、巫は幣枝で鬼を打ち、ほかの5人の巫が牛王枝で鬼を追い払う、としています。
また、浅草寺観音節分会では、僧侶が般若心経を来年の数だけ読経し、そのあと豆をまきます。
そして節分祈祷の札を与えて、人々がこれを争って拾う、と記されています。
また、この札の節分と書いてある方の部分を一字さいて妊婦に飲ませると安産になるとの呪いが紹介されています。
正月ですが追儺の方相氏のなごりらしき「厄払い」という異様な格好をしたものが市中を回り、また、「やいかがし」などとよぶ鰯の頭と柊を戸外に刺す呪いが行われました。
いずれも、正月を迎えるにあたって邪霊のもたらす災厄を除こうとしたものです。
また、厄払いや厄落としは、『守貞漫稿』には文化元年(1804)以来、節分のほか大みそか、正月六日、正月十四日にも行われて、元旦正月、六日年越し・七日正月、十四日年越し・十五日正月と正月が年3度も来るとしています。
このように、江戸時代には江戸を中心として新年の行事と節分行事が影響し合うとともに融合した結果、同様の行事を何度も行うという状況に陥ってしまいます。
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