谷崎潤一郎の愛した橋 鎧橋(よろいばし)③

東京株式取引所調査課編・発行『東京株式取引所』(昭和8年 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【初代の鎧橋 東京株式取引所調査課編・発行『東京株式取引所』(昭和8年 国立国会図書館デジタルコレクション)】

ここまで鎧橋が架けられた経緯を見てきました。

ではなぜ豪商たちは私財を投じて橋を架けたのでしょうか?

社会貢献の一環でしょうか?もちろん、それもありますが、もっと他に彼ららしい狙いがあったのです。

豪商たちは、鎧橋と同時に、橋のたもとにあるものを作りました。

というよりも、これのために その前に橋を架けて通行しやすくしたかったのです。

そのものとはずばり、東京株式取引所(略称は東株)です。

この日本で初めてとなる株取引所は大いに発展して、現在の東京証券取引所(略称は東商)となっています。

では、株式取引所とはどういうものなのでしょうか?そして、どうして必要なのでしょうか?

まず、株式取引所とは、その名の通り、株式会社の株式を売買する場所のことです。

では、なぜこのタイミングで必要となったのでしょうか?

明治維新では様々な分野での近代化が行われましたが、それは経済と金融の世界においても同様でした。

当時は、江戸時代に確立した手工業中心の商業資本から、重工業を中心とする産業構造と近代資本主義へと生まれ変わることが求められたのです。

経済と金融の面でその中心となるのが、銀行と株式会社という二つの組織。

企業自身が広く資本を集めて成長するためには、株式会社の仕組みがどうしても必要となりました。

そして、この仕組みを動かすためには、株式を売買取引するための取引所の存在が欠かせません。

そこで、豪商たちが出資して明治11年(1878)に東京株式取引所を設立したのです。

小林清親「海運橋第一国立銀行」(1880年頃 大英博物館)の画像。
【小林清親「海運橋第一国立銀行」(1880年頃 大英博物館)】

一方、明治15年(1882)に渋沢栄一らによって兌換券を発行する日本銀行が設立されたのを皮切りに、次々と銀行が設立されていきます。

さらに、全国の豪商たちもこれに倣って、次々と銀行を設立しました。

このような相次ぐ銀行の設立によって、近代化に必要な資本を集めて投資する仕組みが急速に整備されていったのです。

株式取引所と銀行という新しい二つの組織ができたことで、文明開化を経済と金融面で支える仕組みが整うことになりました。

ですので、株式取引所や株式会社と銀行は、文明開化の華々しい成果として広く知られるようになっていきます。

井上安治「東京小網町鎧橋通 吾妻亭」(明治22年)の画像。
【井上安治「東京小網町鎧橋通 吾妻亭」(明治22年)】

こうして東京株式取引所は、文明開化を象徴するものの一つとなりました。

そして、その前には立派な橋が新しくかけられたのです。

ただし、この橋は木製でしたので時間とともに傷みが生じたことと、この後見る理由によって、早くも明治21年に鉄橋に架け替えられました。

井上安治「東京小網町鎧橋通 吾妻亭」(明治22年)では、架け替えられたばかりの鎧橋と初代の東京株式取引所が華やかに描かれています。

中野了随「鎧橋」『東都名所図絵』(明治23年 小川尚栄堂 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「鎧橋」(『東都名所図絵』中野了随(明治23年、 小川尚栄堂) 国立国会図書館デジタルコレクション)】

このときに架け替えられた橋は日本でも最初期の鉄橋の1つで、東京府の原口要によって設計されています。

原口は明治8年に米国に留学し、ニューヨーク州のレンセラー工科大学で学び、卒業後、米国の橋梁会社などで腕を磨きました。

彼は橋梁工学を本格的に学んだ最初の日本人だったのです。

明治13年に帰国後は、さっそく東京府の技術系トップである技師長に就任しています。

この新しい鎧橋は、明治15年開通の高橋などに続き、原口が5番目に設計した橋でした。

その後、原口は数々の優れたトラス橋を日本各地に造り、日本の橋の近代化に大きく貢献しました。

架け替えられたばかりの鎧橋は、文明開化を象徴する光景として観光名所となっています。

鎧橋のレンガ積橋台の画像。

新しい鎧橋は、当時の最新式の橋として生まれ変わったのです。

そして、現在も使われているレンガ積の橋台は、この時に造られたものだったのです。

日本で初めての東京株式取引所と最新式のトラス橋の作り出す景観は文明開化を象徴するものとして注目されて、数々の作品に描かれるほどの人気を博し、その様子は新聞でも報道されました。

「高欄の上にかかげたてある橋名の文字は、巌谷一六居士の筆を彫刻せしものにして、同橋工事担当の土木工師原口要、設計理学士倉田吉嗣薫工の額を示し、何れも金鍍なれば甚だ目立ちたるものなりと、また四基瓦斯灯ありて全部とも頗る美麗なり」【朝野新聞 明治20年7月20日】

メイゾン鴻乃巣の案内板の画像。

こうして当時の鎧橋は観光名所となり、多くの人が訪れ、結果として日本の近代化や新しい商業の仕組みを喧伝する役割を果たすことになります。

また、注目が集まった結果、文芸サロン、メイゾン鴻乃巣も生まれました。

ここには多くの若き詩人や文筆家が集って、新しい文化・文芸を創り出すエネルギーに満ちた場所となったのです。

このころの鎧橋について、橋の近くで育った谷崎潤一郎は以下のように書き残しています。

「鎧橋の欄干に顔押し付けて、水の流れを見つめていると、この橋が動いているように見える……私は、渋沢邸のお伽のような建物を、いつも不思議な気持ちで飽かず見入ったものである……対岸の小網町には、土蔵の白壁が幾重となく並んでいる。このあたりは、石版刷りの西洋風景画のように日本離れした空気をただよわせている。」【谷崎潤一郎『幼少時代』】

案内板の明治の鎧橋の画像。

その後、明治21年架設のトラス橋は、関東大震災や東京大空襲にも耐えて日本の経済を文字通り足元から支えたのです。

ここまで鎧橋のたどった華々しい歴史を見てきました。

次回では、この橋のもつ素晴らしい魅力についてみてみましょう。

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