前回見た、一本に見えて実は三本で一本という不思議な橋、昌平橋。
この橋の謎を解くために、まずはこの橋の歴史からひも解いてみましょう。
昌平橋は、千代田区淡路町より外神田一丁目へ神田川に架かる橋です。
初めて橋が架けられたのは、正保年間(1644~1648)と伝えられ、寛文の図には「あたらし橋」と記されています。
この橋付近は江戸市中とは思えない山深い感じがする所として名高く、雪景色のほか、蛍などの名所でした。
たしかに、山深い景色に冴えわたる月がよく似合っています。
架けられた当初から万世橋(旧筋違御門橋)の上流という位置関係は変わっていませんが、江戸時代までは現在よりもかなり上手にあたる湯島聖堂の前にかけられていました。
昌平坂(湯島聖堂の東側の坂、写真参照)に接続して聖堂への通路というのがこの橋の主な役割だったのです。
またこの橋は、周辺にあった坂や神社の名前から「新し橋、相生橋、一口橋」など様々な名前で呼ばれていました。
そこで、元禄四年(1691)に五代将軍綱吉が孔子の霊廟である湯島大聖殿を建造するとともに、その附属の学舎を昌平黌と名づけ、橋名も昌平橋と改めさせます。
昌平黌、昌平坂と昌平橋はワンセットだったのですね。
また、『府内備考』は、「昌平橋 筋違橋の西方にて、神田川に架す。元禄の江戸図には相生橋とあり。聖堂御建立ののち、魯の昌平郷の名かたどり、かく名付け給いしなり。或人の日記には元禄四年二月二日、筋違橋より西の方の橋を今より後昌平橋と唱うべきよし仰せくだされけり、是までは相生橋または芋洗橋などよびしと云々。」と記しています。
たしかに歌川広重の描く「名所江戸百景 昌平橋聖堂神田川」をみると、ちょっとのどかで品格のある感じです。
また『江戸名所図会』は、「此(筋違橋)前の大路を八ッ小路の辻と字す。昌平橋は是より西の方に並ぶ。湯島の地に聖堂御造営ありしより、魯の昌平郷に比して号けられしとなり。初めは相生橋、あたらし橋、また芋洗橋と号たるよしいえり。太田姫稲荷の祠は、此地淡路坂の上にあり。旧名を一口稲荷と称す。又東に柳森稲荷社あり。」としています。
どちらかと言えば、江戸城の主要な出入り口であった筋違門・筋違橋がメインで、その脇みたいな扱いです。
たしかに合わせて掲載している図を見ると、 筋違い門の端っこにちょこっと載せてます。
しかし実はこの昌平橋、ちょっと風変わりな橋でした。
明治初年の昌平橋を写した「明治初年の昌平橋」(『実写奠都五十年史』)を見ると、神田川にかなりの勾配を持った不思議な橋の姿が映されているではありませんか!
これは、南岸の駿河台川のほうが北岸の昌平坂下よりもかなり標高が高いので、このような形になってしまったのです。
このような厳しい条件下にあったので、明治6年(1874)の洪水でこの橋は流失してしまいました。
これは、橋の場所の地形がちょうど台地から低地に変わる場所なので、むかしからたびたび大水で破損・流失してきたこともあって、明治6年の流失後約30年も架橋されませんでした。
しかし、ここは内神田と外神田の繁昌地を結ぶ大切な通路なので、地元民の請願によって、ようやく明治39年(1907)に堅牢な橋台を築いた鉄橋が架設されたのです。
ただし、前にふれたように、この鉄橋の昌平橋は木造時代の昌平橋よりやや下流の現在地だったのです。
このころの昌平橋の様子を描いた森鴎外の文章を見てみましょう。
「夕の昌平橋は雑踏する。内神田の咽喉を扼しているこの狭隘に、おりおり捲き起される冷たい埃を浴びて、影のような群衆が忙しげに摩れ違っている。暫は話も出来ないで、影と一しょに急ぎながら空を見れば、仁丹の広告灯が青くなったり、赤くなったりしている。」【森鴎外『青年』明治44年】
誰もこの橋に興味を示さず、なんだか寂しい感じです。
しかしこのころの昌平橋、実はかなり人気の名所になっていました。
次回はその秘密に迫っていきたいと思います。
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