前回、偶然見つけた素敵な親柱、ここにはいったいどんな橋があったのでしょうか。
まずは和倉橋の名の由来からみてみましょう。
江戸時代の後期には、橋付近をまとめて深川和倉町と呼んでいました。
この和倉町というのは、富岡町(最東)蛤町(東北)西平野町添地(東南)佐賀町代地(西)南本所石原代地(正南)北本所代地(西南)という六つの町を、明治2年併合し、正式な町の名になったのです。
ちなみに、橋跡の説明板によると「和倉」の名前は、北本所代地の東方に幕府の椀蔵があって、里俗にこの辺を略称して「わんぐら」と言ったのが町名になったとされています。
そしてこれが橋の名となりました。
この「わんくら」の地名は、四方山人の作品に登場しています。
「富が岡の北、深川の東、青きともし火の油堀のほとり、鬼一口のわんぐらとかいえる何がしのみぞうしにて、物語を狂歌にかえ、その数百にみてり。」【四方山人『狂歌百鬼夜狂』】
「鬼の椀」とか「青きともし火」とは、なんだか怪しい雰囲気の場所だったんですね。
さて、和倉橋の架けられた場所は、富岡八幡や深川不動へ詣でる裏参道にあたっており、多くの参拝客で賑わっていました。
しかし、橋が架けられたのはじつはかなり新しく、それまでの長い間、渡しが設けられていました。
確かに東京郵便電信局『東京市深川区全図 明治三十年十一月調査』【部分、赤は筆者加筆】を見ると、深川公園及び富岡八幡社の北裏には、富岡橋より鶴歩橋まで橋がないので、渡しがなければかなり不便です。
赤○部分をよく見ると、和倉橋の場所に渡しの表記があり、ちょっと読みずらいですが「和倉渡」の記載があります。
これは、東京市深川区編「深川区生比較要覧 大正元年至四年」(大正五年)にある和倉町三二と深川公園地を結ぶ船数一の「星野ノ渡」と同一のものらしく、ここでは年間乗客は73,000~76,000人となっています。
和倉の渡しの存在を頭に入れてから改めて文献を見直すと、『江戸名所図会』にその様子が描かれているではありませんか!
この渡しがあった頃の様子を谷崎潤一郎が書き残していますので、見てみましょう。
「「これから渡しを渡って、冬木の米市で名代のそばを御馳走してやるからな。」 こう云って、父は私を境内の社殿の後の方へ連れて行った事がある。其処には小網町や小舟町辺の掘割と全く趣の違った、幅の狭い、岸の低い、水の一杯ふくれ上っている川が、細く建て込んでいる両岸の家々の、軒と軒を押し分けるようにどんよりと物憂く流れて居た。小さな渡し船は、川幅よりも長そうな荷足りや伝馬が幾艘も縦に列んでいる間を縫いながら、二た竿三竿ばかりちょろちょろと水底をついて往復していた。」 【谷崎潤一郎『秘密』】
この川幅で、と驚くのですが、確かに渡しがあったのです。
案内板に掲載されていた明治の油堀の画像を見ると、まさに谷崎が描いた風景がそこにあるのに驚きます。
また、案内板の図面を見ると、どうやら油堀川は普段は幅が10mくらい、深さは2m弱だったようですので、谷崎が言うように「二た竿三竿ばかりちょろちょろと水底をつい」たら、もう着くくらいのこじんまりした渡しです。
先に見た数字から単純に計算すると、毎日二百人以上が利用していたのですから、かなり重宝されていたのでしょう。
そして、この小さな渡しの運命をかえる出来事が起こります。
次回はいよいよ和倉橋の誕生です。
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