前回まで竹橋とその周辺の歴史を見てきました。
今回は、現在の橋を見てみましょう。
現在、竹橋は千代田区一ツ橋1丁目と北の丸公園を、旧江戸城の内堀に架かって渡しています。
この場所は江戸城の竹橋がかかっていたのとほぼ同じ場所。
そして、現在の橋は開通が大正15年で、橋長49.9m、3連の鉄筋コンクリートアーチ橋ですが、現在は一ツ橋側の1連が埋め立てられて2連になっています。
竹橋は皇居の近くにある由緒ある橋であるのに加えて、建設当時は竹橋営所がありましたので、震災復興橋の中では珍しく装飾の多い橋となりました。
そして橋の端にはそれぞれ巨大な親柱が建てられて華やかで荘厳な雰囲気を醸し出しているのです。
建設間もない橋の様子を見ると(歌川広重他著「竹橋」『江戸の今昔』昭和7年 湯島写真場)を見ると、橋全体がコンクリートの地肌のままで、直線的デザインの親柱や欄干とアーチの対比が美しく、当時流行していたモダニズムのデザインを体現する華麗な橋であることが分かります。
この橋の美しさは評判となり、東京の新しい名所となりました。
そして、隅田川や神田川の復興橋とあわせて、大東京十六大橋の一つに数えられていたのです。
そして、この橋は第二次大戦でも大きな被害を受けず、建造以来の姿をとどめていました。
しかし、平成5年に行われた修景工事で橋側面に石積模様が付けられ、建設時から初めて姿を変えたのでした。
この時、橋のイメージも大きく変わりましたが、それでも内堀に映える姿は一幅の絵のような美しさであることは変わりません。
最初に書いたように、R君と坊主町君にいろいろと教えてもらった竹橋ですが、子育ての嵐の中ですっかり忘れていました。
上の娘がようやく小学校中学年になった時のことです。
ちょうど東京国立近代美術館で岡本太郎の回顧展が開催されていて、どうしても娘が見に行きたいと言い出し、奥さんも同意、わたしも彼の作品が好きだったので、みんなで見に行くことにしました。
暑い盛りのことでしたので、まだ幼い下の娘のことを考えて、往復タクシーという豪勢な見物です。
タクシーの運転手さんが、「もうすぐですよ」と声をかけてくれたその時、私の目に何とも不思議な形をした親柱が目に飛び込んできました。
この時は、残念ながらゆっくり見ることが出来ず、あの不思議な親柱は車窓から眺めが強烈に私の脳裏に刻まれることになりました。
すぐの再会を誓ったのですが・・・やっぱり子育てのあわただしさにかまけて、再び二年が経ちました。
初春の陽気の中、洗濯物を干していると、突然頭の中に あの親柱の姿が浮かびました。
「いつになったら来るの?」と嘆く声が聞こえたように思った私は、数日後に何とか都合をつけて竹橋に向かったのです。
そしてようやく出会えました。
ロマネスクではなくモダニズムの範疇に入るのでしょうが、確かに何かが過多な感じです。
そう、親柱のライトが多すぎる!メインの大きい一個でよさそうなものなのに、とか思って写真を撮ろうとた時です。
そしたら来るは、来るは!次々と皇居ランナーが現れて途切れることがありません。
撮影しようとすると、女性ランナーににらみつけられました。
その後も次々とランナーたちににらまれてすっかり私は怖気づいて、「竹橋恐るべし!」と撮影をあきらめてシッポを巻いて逃げ出しちゃっいました。
そして今回の再挑戦、橋の連載を始めて少し成長したのか、竹橋を再訪した折には厳しい目線にも負けてはいません。
今度はじっくりとこの橋を眺めてみると、美しい橋で見とれてしまいました。
そしてやっぱり今日も皇居ランナーたちが次々と走り抜け、竹橋から始まる紀伊国坂をあえぎながら上っていくのです。
かつては近衛の軍人や永井荷風『日和下駄』に描かれた荷車を曳く人達、今日の皇居ランナーたちと、この橋は時代を超えて若い人たちに縁のある橋なのが不思議に思えてなりません。
確かに竹橋はちょっと装飾が多くて場違い感もあるけれども、それも含めてちょっとお茶目な良い橋、きっと若い人を引き付ける何かがあるのだと思います。
だから、最初に出てきた竹橋にちょっと恨みをもつ坊主町君も、大学受験の一件は忘れてこの橋が好きになってくれるといいのにな、と思うのでした。
この文章を作成するにあたって以下の文献を参考にしました。(順不同敬称略)
また、文中では敬称を省略させていただきました。
石川悌二『東京の橋 -生きている江戸の歴史-』1977新人物往来社、
伊東孝『東京の橋―水辺の都市環境』1986 鹿島出版会、
東京都建設局道路管理部道路橋梁課編『東京の橋と景観(改訂版)』1987東京都情報連絡室情報公開部都民情報課、
街と暮らし社編『江戸・東京文庫① 江戸・東京 歴史の散歩道1』1999 街と暮らし社、
紅林章央『東京の橋 100選+100』2018都政新報社
次回は首都高両国大橋です。
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