偶然、古い写真を見つけました。
表現主義の影響か、流れるようなフォルムの かわいらしい素敵な建物。
これは「久松小学校外観」(『東京市教育施設復興図集』)です。
元高砂橋編の資料調査の時です、この橋の袂に久松小学校があったので、どんな校舎か気になっていました。
この写真で見る校舎は大変デザイン性の高いおしゃれな建築物で、関東大震災からの復興建築です。
写真に写っているのは中央区立久松小学校(ちゅうおうくりつ ひさまつしょうがっこう)、東京都中央区日本橋久松町にある公立小学校です。
ここでちょっと久松小学校の歴史を学校のHPなどで見てみましょう。
久松小学校は明治6年7月に、東京市日本橋区久松町38番地の越前勝山藩主・小笠原長守屋敷跡に第一大学区第一中学区二番久松小学校として開校しました。
設立にあたって伊予松山藩主・久松松平家の久松定謨(ひさまつ さだこと)伯爵から巨額の寄付があったことから、校名に名前をいただいたそうです。
そして、もう一枚「久松小学校」(『日本橋区史 参考画帖第1冊』)の写真が残っていて、こちらには大正時代初めの校舎が写されています。
写真をみると、石造外壁の二階建の校舎には大きな窓や屋根の破風などにデザインの工夫がなされてモダニズム建築を思わせるすっきりした印象のおしゃれな校舎です。
この校舎は、大正12年9月の関東大震災により外壁だけを残して焼失してしまいます。
そして、しばらく仮校舎でしのいだ後、昭和4年(1929)5月に新しい校舎が完成します。
ここで昭和4年(1929)に完成した校舎をちょっと覗いてみましょう。
校舎は昭和2年(1927)12月に起工、昭和4(1929)年5月に竣工した鉄筋コンクリート造りの建物で建設費は総額489,307.260円、工事は戸田組が請け負いました。
地上三階地下一階で、校舎延坪1,217.35、室内体操場やシャワーバス完備、屋上も利用可の当時の最新鋭の施設でした。
建物の外観は、最初に触れた通り表現主義の影響か、コーナー部分などに曲線を取り入れているものの、とてもシンプルで機能的。
私的には大きな開かれた窓など、開放的な構造が強く印象に残るとともに、全体的にかわいらしいデザインが大好きです。
内部の構造を見ても、子供たちが校庭と、これにつながる久松公園に駆け出せるように3か所も校庭への出入口が設けるやさしい気遣いが素敵です。
このステキな校舎も、完成からわずか16年後の昭和20年(1945)3月の米軍機による東京大空襲によって校舎は全焼し、書類や書籍の大部分を失うとともに、通学区域の9割以上が焼失するという甚大な被害を受けました。
写真「東京大空襲で焦土と化した東京」(『日本橋消防署百年史 明治14年-昭和56年』)には、大空襲に耐えて何とか残った小学校の建物が確認できます(赤矢印先の建物が久松小学校)。
しかし、早くもその年の10月には残留児童を集めて焼失校舎内で授業を再開しています。
昭和22年撮影の空中写真を見ると、修繕した校舎を見ることができます。
校舎は修繕してしばらく使用していましたが、昭和48年(1973)3月には建て替え工事を行い、新校舎が完成します。
このあとこの校舎が増改築しながらも現在に至るまで使用されています。
写真は昭和32年撮影の空中写真(KT572YZ-C1-28(1957・3・29))と昭和47年撮影の空中写真(MKT712X-C6-9(1971・4・23))の久松小学校です(いずれも国土地理院Webサイトより、久松小学校部分を拡大)。
隣接する久松公園を校地に加えるなどの改修がありますが、校舎は続けて使用されているのが分かります。
ここまで高砂橋に隣接する中央区立久松小学校についてみてきました。
かわいい校舎とセットの高砂橋はどのような橋だったのでしょうか?
次回では高砂橋についてみてみたいと思います。
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