幻の橋と商店街 栄橋(さかえばし)編 ①

日本橋久松町の隅っこに、焼き鳥屋や喫茶店、魚屋さんなどが並ぶ一角がありました。

昭和を思わせる、なんだか懐かしいその町が気に入って、機会があればその町を眺めながら通っていたのです。

旧栄橋商店街の画像。
【旧栄橋商店街】

その日も お姉ちゃんを自転車の後部座席に載せて、この一角に通りかかったときのことです。

ねじり鉢巻きに前掛け姿の魚屋兼居酒屋のおじさんが、「マグロどうだい!三崎からいいのが入ったよ!何なら試食だけでも」と声をかけてくれました。

自転車の後部座席のお姉ちゃん、マグロという声に反応して「食べたい!」の連呼です。

それで試食させてもらうと、確かにおいしい!しかも値札を見ると、すごく安い!

用事を終わらせたら帰りに寄る約束をして、戻ってきたのは2時間ほど後のこと。

マグロはすっかり店頭から消えていて、お姉ちゃんとがっかりしていると、おじさんが店先に出てきました。

おじさんは満面の笑みを浮かべて、「ひと舟取っといたよ!」と包みを渡してくれたのです!

感動した私は、おじさんにこの辺りの雰囲気が好きなことを伝えて、商店街の名前を尋ねたのです。

旧栄橋商店街跡の画像。
【旧栄橋商店街】

少し照れ笑いしたあと、おじさんは「特に商店街ってわけじゃないんだけどねえ。まあ、あえて言うなら栄橋商店街かなあ」と周りの人と笑いながら答えてくれました。

これが私と栄橋の出会いです。

栄橋ってどこにあるの? 川はどこにあるの? と私の疑問符だらけの顔を見ておじさんは、「そういうおめでたい名前の橋があったんだよ。俺も見たことないけど、なあ」と周りの友達たちに言うと、みんなにこやかにうなずいています。

それで、栄橋ってどんな橋?ということで、さっそく調べてみましょう。

住所案内板に栄橋跡を記入した図の画像。

これは橋のあったところを住所表示板に記入したものです。

栄橋は中央区日本橋久松町の北西隅から日本橋富沢町へ浜町川を渡す橋でした。

隣の橋は、上流側(北側)は問屋橋、下流側(南側)が高砂橋です。

残念ながら橋名の由来は分かっていません。

しかし、この橋と町の繁栄を願う気持ちを込めて名付けられたのは間違いないとでしょう。

最古の江戸絵図である「武州豊嶋郡江戸庄図」(寛永九年、『集約江戸絵図 上巻』古板江戸図集成刊行会(中央公論美術出版社、昭和39年)より筆写)の画像。
【「武州豊嶋郡江戸庄図」(寛永九年、『集約江戸絵図 上巻』古板江戸図集成刊行会(中央公論美術出版社、昭和39年)より筆写)】

この橋の架かる浜町川は江戸時代の初期、寛永(1624~43)の頃に開削されたとみられ、最古の江戸絵図である「武州豊嶋郡江戸庄図」には川口橋とともに栄橋が描かれています。

「日本橋北、内神田、両国浜町明細絵図」(安政6年『集約江戸図 中巻』古板江戸図集成刊行会(中央公論美術出版、昭和38)より筆写【栄橋部分】)の画像。
「日本橋北、内神田、両国浜町明細絵図」安政6年(『集約江戸図 中巻』古板江戸図集成刊行会(中央公論美術出版、昭和38)より筆写【栄橋部分】)

その後も無名橋として多くの絵図に描かれていますが、「栄橋」の名が記されているのは、「日本橋北、内神田、両国浜町明細絵図」(安政6年)が最初のようです。

ここまで見てきたように、浜町川と共に誕生した栄橋ですが、その後も継続的に記録が残ることから定期的に架け換えられていたとみて間違いないでしょう。

しかしその橋名が町絵図に記されるようになったのは、ようやく幕末頃になってからでした。

次回では、その後の栄橋の運命をたどっていきたいと思います。

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