前回は栄橋の誕生の歴史をたどってきました。
今回はこの橋のその後を見ていきたいと思います。
江戸時代の各種町絵図に描かれてきた栄橋ですが、明治時代に入ってもその状況に変化はありません。
『明治東京全図』(明治9年)をはじめとする地図類にも記名されていますし、『東京府志料』明治5年(1872)にも「栄橋 富沢町より久松町へ架す、長八間、幅三間」と記載されているので、明治時代初めには栄橋の名が定着していたとみなしてよいでしょう。
その後も継続的に記録が残ることから、橋は定期的に架け換えられて維持管理されいたことがわかります。
一例をあげると、『日本橋区史 第1冊』所載の「明治十五年府統計」によると、明治9年(1876)2月、工事費889円で「橘一丁目ヨリ久松町へ渡ル」長5間、幅4間の木橋が架けられました。
また、『日本橋区史』所載の大正四年十二月調査によると、明治35年(1902)7月には橋長6間・幅4間の「自 久松町 至 富沢町」の木橋を4,585円で架設しています。
さらに、震災前の大正10年(1921)6月に方杖タイプの木橋で設計されており(『中央区の橋・橋詰広場』)、このすぐ後に新しい木橋が建設されたようです。
そして大正12年(1923)に、地域の人達に守られてきたこの橋と東京の街を関東大震災が襲います。
震災では東京の下町の多くが劫火にのまれて壊滅的被害を受け、この橋周辺も甚大な被害を受けました。
「関東大震災の被害、浜町河岸」(『日本橋消防署百年史 明治14年-昭和56年』)を見ると、浜町一帯は焼け野原となって、はるかに両国橋まで何もない状況にあることが分かります。
しかし、帝都復興事業のなかでこの橋の名は出てきません。このことから、橋が奇跡的に焼け残ったものと考えられます。
そして帝都復興事業に伴う区画整理事業で街並みが大きく変わり、上流側に問屋橋、下流側に高砂橋(イラスト)が新しく架けられました。
この時の栄橋について、『中央区の橋・橋詰広場』は高砂橋の項で以下のように記しています。
「昭和3年5月に設計された高砂橋は、栄橋と同じ方杖タイプの木橋だが、木材の組み方に違いがみられ、全体的に堅固ないしは鈍重な方杖橋になっている」とあり、高砂橋よりも栄橋は少しスマートな感じがする橋なのでしょう。
さらに続けて、「主桁は、高砂橋が二層に梁を組んでいるのに対し、栄橋は方杖を両側からサンドイッチするように中央スパン部を補強し、見た目は軽快な桁橋になる。また高砂橋は橋台はコンクリートの打ち放しで、方杖の受け部もコンクリート製である」とあるので、栄橋の橋脚は石積あるいはコンクリート製のものに石をはった形なのでしょうか。
これらの情報をもとに、栄橋を想像で描いてみました。
描いてみて思ったのですが、震災前には当時の日本橋区(現在の中央区北半)ではこんな感じの橋が多く架かっていました(復興事業ではコンクリート橋や鋼桁橋が主流です)ので、古風な印象を受けます。
関東大震災からわずか22年後、栄橋は再び大きな試練を迎えます。
太平洋戦争末期の昭和20年(1945)3月、米軍による東京大空襲によって東京の下町一帯は再び壊滅的被害を受けてしまったのです。
この橋周辺も例外ではなく、一面の焼け野原となりました。
この頃の航空写真(「東京大空襲で焦土と化した東京」『日本橋消防署百年史 明治14年-昭和56年』)を見ると、この時に近くの木橋、高砂橋と元高砂橋が焼け落ちたのが分かります。
しかし、写真をよくみると、驚いたことに栄橋は残って機能している姿が確認できるのです。
その後の昭和23年(1948)の記録(『中央区史』)を見ると、栄橋は橋長23.2m、幅26.0mの鋼方杖ラーメン橋と記されていますので、いずれかのタイミングで橋桁を改修する工事が行われたのが幸いしたのでしょう。
こうしておよそ280年、大切に守られて来たこの橋をさらに災難が襲います。次回はこの橋のその後の運命を見ていきたいと思います。
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