前回まで大成功した蔦重のビジネスと、あまりにも急だった彼の死について見てきました。
近年、蔦屋重三郎の評価は高まるばかりで、かつて彼の書肆のあった場所には最近ようやく案内板が建ちました。
そこで今回は、蔦重が現在に遺した歴史的遺産についてみていきたいと思います。
蔦重の死からわずか7年ののち、文化年間に入ると、幕府の統制も緩んで江戸の文化創造は再び活性化していきます。
新しい文化を牽引したのは、蔦重と縁が深い山東京伝、曲亭(滝沢)馬琴、十返舎一九、葛飾北斎といったメンバーでした。
これに式亭三馬、柳亭種彦、為永春水、歌川広重といった新しい才能が加わって、大きなうねりとなってきます。
これに、太田南畝(蜀山人)も復帰して、新旧さまざまな才能が集まって、江戸の都市文化が大きく実を結ぶこととなりました。
こうして誕生した化政文化の産物は、はるか海を越えたヨーロッパの地でも高く評価されていきます。
なかでも浮世絵はヨーロッパに衝撃を与え、ジャポニズム(日本趣味)を巻き起こして印象派の画家たちに多大な影響を与えたことはよく知られるところです。
同時に、世界に日本の存在を認知させる働きももたらして、その後の日本の運命を切り開くことにもつながったのでした。
このことは、蔦重の想像をはるかに超える大きな成果といえるでしょう。
さて、蔦重の死後は番頭が二代目を継ぐも家勢は衰えて嘉永頃をもって廃されたといわれています。
ただし、蔦屋の末裔たちは今日まで生き延びているといわれていますが、残念ながら名高きTUTAYAは直接の関係は無いようです。
そして今日。
浮世絵をはじめ、彼が関わった作品の多くが日本を代表するコンテンツとなって盛んに用いられています。
蔦屋重三郎が世に送り出した喜多川歌麿、東洲斎写楽、滝沢馬琴など、世界樹の人たちが知っているあまりにも有名な作品の数々は、今や日本が世界に誇る文化遺産となっているのです。
この文章を作成するにあたって、以下の文献を参考にさせていただきました。
また、文中では敬称を省略させていただきました。
参考文献:『長谷川時雨全集』(日本文林社、1941~42)、
『日本橋横山町馬喰町史』有賀祿郎編(横山町馬喰町問屋連盟、1952)、
『浮世絵事典』吉田暎二(緑園書房、1965)、
『中央区史 上巻・下巻』(東京都中央区役所、1958)、
『江戸学辞典』西山松之助、南和男ほか編(弘文館、1984)、
『江戸東京学事典』小木新造、陣内秀信ほか編(三省堂、1987)
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