前回は、明治を迎えた堀家についてみてきました。
そこで今回は、近代の荒波に翻弄される堀家の戦後までを見ていきたいと思います。
堀親篤(ほり ちかあつ・1863~1928)
堀親篤は文久3年(1863)に谷田部藩細川興貫二男の貫通として生まれました。
十三代堀親広の一人娘・喜子(よしこ)を娶り、明治11年(1878)には名を親篤と改めて家督を継いで若干16歳で十四代当主となったのは前回に見たところです。(『平成新修旧華族家系大成』)
親篤は明治11年(1878)10月5日に家督を相続すると、旧飯田藩上屋敷地の北半に邸宅し、南半には家作を整備しています。
そして、祿券三万十圓五十二銭を活用して株式や土地建物に投資して資産を形成に努めました。(『明治華族銘鑑』)
後述するようにトラブル中の大正元年時点で、東京市内だけでも浅草区向柳原町の本邸3017.58坪、同区橋場町447.59坪、小石川区高田豊川町3,580坪の土地を保有しています。(『東京市及接続郡部地籍台帳』)
その後、明治14年(1881)に親篤は子爵に叙せられると、明治18年(1885)からは賢所勤番となり、明治25年(1892)6月から明治30年(1897)7月まで二十代で貴族院議員を務めています。(『議会制度七十年史 貴族院・衆議院議員名鑑』)
浅草区長就任
時期は前後しますが、社会的地位も高く、「資産家の内に列し」た堀子爵家は「浅草区民の為めに多額の学校費を義捐」など地域貢献を行った結果、本邸を置いた浅草区で信望が大いに高まりました。(『立身致富信用公録 第6編』)
その結果、明治22年(1889)8月の選挙会で区議会議員に選出されて、明治28年(1895)11月の任期切れまで在任し、明治26年(1893)には区議会議長を務めるまでになっています。
さらにその後、貴族院議員在任期間をはさんで明治31年(1898)9月14日の選挙で当選して区議会議員に復帰、さらに明治32年(1899)2月~33年(1900)8月にはなんと六代目区長に。
じつは浅草区では、初代区長に旧播磨国福本藩主・池田徳潤男爵が明治11年(1878)12月~14年(1881)6月の期間在任するという、華族区長の前例があったのです。
ただし、浅草区で区長が華族だったのは池田男爵と堀子爵の二人だけ(以上、『浅草区誌 上巻』)、やはり珍しい存在なのは言うまでもありません。
ちなみに池田徳潤男爵は、浅草区のほかでも京橋区、麹町区でも区長を務めた珍しい経歴を持つ人物で、悲劇的な結末を迎えるのですが、それはまた別の機会に見ることにしましょう。
本題に戻って、親篤が浅草区長になったのは、「浅草区民に師父の如き尊敬を受け東京市参事会も君を浅草区長に挙げたる」(『立身致富信用公録 第6編』)とあって、飯田から東京に出てきた親広の代からの取り組みが、地域で大きな信望を得るまでになっていたのです。
実業家華族の悲劇
地域で大きな信望を得た一方で世間知らずのボンボン、まさにそこを狙われてしまうのです。
「東京絵入日報の為めに数万円を出資した」(『立身致富信用公録 第6編』)ことが記されていましたが、これは明治8年(1875)創刊の東京絵入新聞のこと、仮名垣魯文も記者をしていた女性や子供に人気の新聞でした。
この新聞の発行部数についてみると、明治12年(1879)には140,000部、明治22年(1889)には9,700部と、明治10年代末から経営不振に陥った末に明治23年(1890)廃刊となっていて(『国史大辞典』)、親篤が出資したと目される成人した明治16年(1883)以降といえば、すでに経営は下り坂にあったのです。
これは親篤に企業経営や投資についての十分な知識技量が無いことの証拠とみてよいでしょう。
ところが、『人事興信録初版』によると親篤は千代田銀行専務取締役に就任しています。
じつは親篤の実父である谷田部藩主・細川興貫子爵がすでに千代田銀行取締役となっていて、親篤は誘われて就任したとみるのが自然です。
ところがこの千代田銀行、『立身致富信用公録 第6編』によると、「旧飯田藩主堀親篤を専務取締役、旧谷田部藩主細川興貫を頭取、旧吹上藩主有馬頼之、旧西大平藩主大岡忠明、旧佐貫藩主阿部正敏を取締役」といういずれも一万石台の小藩の大名「華族の経営する銀行として一異彩を出」すという経営陣で、「殿様の御商売は今も尚昔しの如きか」と陰口をたたかれる存在でした。
案の定、「(明治32年(1899))前下半期に三千五十八円三十二銭六厘の損失を出す」など、経営は悪化して、明治41年(1908)6月23日に任意解散しています。(一般社団法人全国銀行協会・銀行変遷史データベース)
さらに悪いことに、『人事興信録 2版』によると、親篤は株式会社千代田銀行専務取締役のみならず、株式会社千代田貯蓄銀行頭取までも引き受けており、一時期「現今は前掲会社の重役として名声噴々たり」と一時期は実業家華族ともてはやされるものの、急転直下、子孫の代まで類を成す悲劇を引き起こすことになります。
(株)千代田貯蓄銀行は、(株)谷田部銀行(やたべ ぎんこう)が東京に明治35.6.5移転、明治35年(1902)11月29日に改称したものでした。
おそらくこれも親篤の実父である谷田部藩主・細川興貫子爵が関係する銀行なのでしょうが、なんと親篤が頭取を引き受けた直後に倒産して任意解散したのです。(一般社団法人全国銀行協会・銀行変遷史データベース)
当然、両銀行の負債は頭取である親篤に降りかかる事となりますが、千代田銀行存続時はなんとかなったのかもしれません。
しかし、、実父・興貫が務めていた千代田銀行の頭取を、興貫没後は親篤が継いでいたために、明治41年(1908)に千代田銀行が負債で解散すると、突然親篤は莫大な借金を背負うことになってしまいました。(「司法権の独立に関する上言書」『法律新聞大正4年(1915)1月15日』)
さらに、親篤は宮内省から爵位停止の処分を受けており、大正天皇即位に伴う措置で停止が解除されるまで華族の資格を失うこととなったのです。(『明治・大正・昭和 華族事件録』)
でも、経営の素人に銀行の取締役や頭取をさせるとは、考えてみるといかにもおかしな話だと思いませんか?
これは、平時には高い給料で釣った華族の名声を使って集客し、倒産時には債務を華族に背負わせる、世間知らずな華族を食い物にする悪質な商法なのかもしれません。
千代田銀行には経営陣に名を連ねる華族たちの陰にはもちろん実質的経営者がいますし、千代田貯蓄銀行に至っては、はじめから債務を堀子爵家に負わせる狙いだったのではとの疑念さえあるのです。
今回は子爵・堀親篤の栄光と転落を見てきました。
次回は、堀子爵家のその後を見ていきたいと思います。
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