《最寄駅:東京メトロ銀座線・都営地下鉄浅草線・東部伊勢崎線 浅草駅》
明治17年(1884)に華族令が公布されると、旧谷田部(茂木)藩主細川興貫は子爵に叙され、細川子爵家が誕生しました。
この細川子爵家は点々と居所を替えているのですが、興貫・興嗣の二代、明治24年(1891)から明治42年(1909)までの19年間を過ごしたのが東京市浅草区今戸町11番地番地、現在の東京都台東区浅草7丁目です。
そこで今回は、今戸の細川子爵邸跡を訪ねてみることにしましょう。
(グーグルマップは、細川子爵家今戸屋敷があった台東区リバーサイドスポーツセンター陸上競技場を示しています。)
地下鉄浅草線浅草駅4番出口
スタート地点は地下鉄銀座線浅草駅4番出口です。
この出口、昭和2年(1927)にアジアで最初の地下鉄として浅草~上野間が開業した時からあるもので、「近代化産業遺産」に認定された歴史的建造物、覆屋背面の透かし彫り状「地下鉄出入口」のデザインがたまりません。
ここへは、地下鉄浅草線浅草駅A3出口から国道6号江戸通りを100mほど北上すると到着、東武浅草駅は南口から出ると、吾妻橋交差点の向こう側に見えています。
吾妻橋交差点は雷門こそ建物の陰になって見えませんが、昭和6年(1931)開業の東武浅草駅(東武鉄道HP)や、明治13年(1880)創業・大正10年(1921)竣工の神谷バー(神谷バーHP)と地下鉄浅草駅4番出入口、昭和6年(1931)竣工の吾妻橋と、隅田川をはさんでアサヒビール本社と「金の炎(フラムドール)」のオブジェ、東京スカイツリーという近現代の東京を代表する建物が一望できる絶好のビューポイントなのです。
隅田川公園を歩く
それでは、隅田公園を北の上流側に向かって歩いていきましょう。
昭和6年(1931)竣工で高いデザイン性が光る東武伊勢崎線隅田川橋梁、さらに昭和3年(1928)竣工の復興橋・言問橋をくぐってさらに北へ進みます。
今戸橋
隅田公園内に戻って北に進むと、橋の親柱らしきモダンな建造物が並んでいるのが見えてきました。
これは、かつてこの地にあった今戸橋の親柱と欄干を残したもの、隅田川から分かれて北西方向に延びていた山谷堀の河口に架けられた橋でした。(『図説 江戸・東京の川と水辺の辞典』)
猪牙舟がこの橋に下をくぐって山谷堀奥にある新吉原へ盛んに向かっていたことから、「今戸橋上より下を人が通る」と川柳で揶揄されるほど賑わいを見せていたのです。
最後の橋は、関東大震災からの復興事業で大正15年(1926)に竣工した大正モダニズムの名橋でしたが、昭和62年(1987)の山谷堀埋め立てによって廃橋となり、現在の形となりました。
待乳山聖天
ここで公園の西側、隅田川の反対方向に目を向けてみましょう。
すると、小高い丘の上に和風の建物があるのが見えてきました。
これが待乳山聖天で、推古天皇の時代に創建の古寺、「聖天さま」として一家和合と商売繁盛のご利益があるとされて信仰を集めてきたのです。
また、『鬼平犯科帳』『剣客商売』などの時代小説の名手・池波正太郎(1923~90)が生まれたところ、参道西口には碑も建てられています。
今戸神社
今戸橋から北が今戸の地、橋から言問大谷田線を北に行くと、本龍寺と慶養寺と細川子爵屋敷があったころと変わらぬお寺のさきには今戸神社があります。
今戸神社はもと今戸八幡と呼ばれ、源頼義が前九年の役での戦勝を祈願して京都・石清水八幡宮を鎌倉の鶴岡八幡宮とこことに勧請したのがはじまりという古社、沖田総司終焉の地としても知られるほか、現在は縁結びやパワースポットとして若い女性に大人気です。
いっぽう、今戸橋からかつての山谷堀・山谷堀公園をさかのぼっていくと、江戸の職業落語家の元祖とされる初代三笑亭可楽(1777~1833)の墓がある潮江院を経て新吉原に至ります。
リバーサイドスポーツセンター
今戸神社や新吉原も魅力的ですが、ここは隅田川公園の中を進みましょう。
するとすぐに、公園の中にリバーサイドスポーツセンターの建物が見えてきました。
現在の施設は昭和58年(1983)に完成、体育館やテニスコート、屋外プール、野球場と陸上競技場を備えた台東区の体育行政・体育活動の拠点となっています。
この中の陸上競技場の一角が、かつて細川興貫が屋敷を構えていた場所、現在は立ち入ることもできません。
そこで、このままテニスコートと野球場の間を通って、隅田川の堤防に出てみましょう。
すると一気に眺望が開けて、目の前には隅田川のパノラマ、X字形の桜橋の向こうには東京スカイツリーがそびえ立っています。
絶景を楽しみながら、桜橋のたもと、ちょうど陸上競技場の裏手にベンチがありますので、ここで休憩しながら旧谷田部藩(茂木藩)主細川子爵家屋敷についておさらいしたいと思います。
西側、陸上競技場正面 東側、陸上競技場裏手にあたる隅田川土手
細川子爵家今戸屋敷
まずは、旧谷田部(茂木)藩主細川家が今戸に住むようになるまでを見ていきましょう。
茂木(谷田部藩)の最後の藩主細川興貫は、廃藩置県が断行されたのに伴って東京に召集されると、東京本郷区駒込千駄木林町、本郷区弓町一丁目と住居を変えた後、明治24年(1891)頃に居所を東京府浅草区今戸町11番地に移りました。
そして、興貫はこの今戸の屋敷で明治40年(1907)9月11日に息を引き取ったのは、第5回「細川子爵家誕生」で見たところです。
その後、興貫の嫡子興嗣が家督を継ぐと、この今戸屋敷もあわせて引き継ぎました。
ところが、そのわずか2年後の明治42年(1909)、取締役を務めていた千代田銀行が多額の債務を負って解散すると、そのあおりで直後の明治42年7月9日に興嗣は隠居、家督を嫡男興治に譲らざるをえなくなったのです。
そして興治は今戸の家を離れて、東京内を点々と居所を代えながら大正3年に明治大学大学部法科を卒業、宮内省諸陵寮月輪部陵墓監となって京都に移ったのでした。(第6回「細川子爵家最後の輝き」参照)
昭和17年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、C29C-C1-49〔部分〕) 復興調査協会編「蔵前橋・言問橋」『帝都復興史・附横浜復興記念史-第1巻』昭和5年 興文堂書院 国立国会図書館デジタルコレクション 復興局編「言問橋」『復興事業進捗状況 昭和5年12月末現況』昭和6年 復興局 国立国会図書館デジタルコレクション
隅田公園の誕生
いっぽう、細川子爵家があったこの地は、関東大震災で甚大な被害を受けた結果、復興事業で公園として再開発されて、隅田公園の一部となりました。
隅田川の両岸に建設された隅田公園は、震災復興の四大公園の一つに数えられる大規模なもの、いわば震災復興の象徴的存在となったので、他にはない先進的な施設が作られました。
その一つが運動公園で、ここに台東リバーサイドスポーツセンターの原型が作られたのです。
プロレスの聖地、台東体育館
開設時は屋外施設が中心でしたが、戦後、大きな体育館が加わりました。
現在のリバーサイドスポーツセンター、その前身がこの台東区立台東体育館というわけです。(当時の記録では、単に「台東区体育館」とするものも見られます。)
プロレス好きの方ならピンときたかもしれません、そうです昭和35年(1960)9月30日に馬場正平と猪木寛治、のちのジャイアント馬場とアントニオ猪木が同時デビューした場所なのです。
さらに、昭和42年(1967)4月には日本女子プロレスリング協会の旗揚げ公演も、この地で行われました。
そのほか、昭和35年(1960)12月3日の力道山対R・ワルドのアジアヘビー級タイトルマッチ、昭和45年(1970)9月17日にはジャイアント馬場がアブドーラ・ザ・ブッチャーを破ってインタ王座V18を達成、同年12月12日にはサンダー杉山・グレート草津ペアがBO・ウィンダム・LA・ヘニング組を破ってIWA世界タッグ王座を奪還するなどの数々の名勝負が行われた場所として記憶されている方もおられるかもしれません。
ほかにも、アントニオ猪木、ラッシャー木村、坂口征二、山本小鉄など、数多くのレスラーたちがこの台東体育館のリングに上がったことは案外知られていないのではないでしょうか。(『日本プロレス全史』)
今戸ってどんな場所?
話しを細川子爵家に戻しまして。
細川子爵家には銀行株券八十七株の外に財産らしい財産がありませんでした。(『華族名鑑 新調更正』1887~93、『華族名鑑』)
ですので、今戸屋敷も借家だったと想定できるのですが、ではなぜ興貫は今戸という土地を選んだのでしょうか?
そこで、明治時代の今戸をちょっとのぞいてみましょう。
今戸は江戸時代から新吉原の入り口として知られていたのは今戸橋の項で見たところです。
しかし今戸から橋場にかけてはというと、一部に町屋があるものの、江戸郊外の田園風景が広がっていたと言いますから、現況からはちょっと想像できないかもしれません。
この田園の中に神社仏閣が点在するうえに隅田川の流れを控える閑静な土地柄は、江戸時代から多くの文人・墨客に愛される土地柄だったのです。
さらには江戸の町に近いうえに舟運の便がよいことから、「今戸橋場の朝煙り」といわれるように、瓦を焼く家が多くあったことも風情を添えていました。
この瓦職人が余技で火鉢や人形を焼いたのが今戸焼のルーツ、明治になっても今戸の情景は人気を集めて、三条実美や宇和島藩伊達家など華族や政府高官、実業家が別邸を構える場所となったのです。
今風に言うと、都心に近いリゾート地、しかも賃貸料がリーズナブルといったところでしょうか。
現在、細川子爵家今戸屋敷があった辺りには、全くその痕跡はありません。
隅田川テラスを歩く
それでは帰路につきましょう。
目の前に広がるX字型の人道橋は、昭和60年(1985)に完成した桜橋、東京スカイツリーや上流側の白鬚橋を遠望できる絶景ポイント、特に橋の夜景は秀逸です。
また、さくら橋たもとには明治45年(1912)に東京市が米国のワシントンD.C.に贈った桜の子孫が里帰りして植えられていました。
桜橋から隅田川テラスを歩いて浅草に向かいましょう。
唱歌「花」にも謳われた隅田川ののどかな景色を楽しみながらおよそ1㎞歩くと、吾妻橋たもとの浅草水上バス乗船場に到着、ここから隅田川テラスから川岸を上がると、スタート地点の地下鉄銀座線浅草駅4番出口は目の前です。
今回はコースの大半が隅田川公園内の約2.4㎞で所要時間は約1時間、平坦で景色もよいので心地よい散策が楽しめました。
実際歩いてみると、細川子爵家が屋敷を構えた頃のものは残っていませんでしたが、かつて風光明媚な近場のリゾート地として人気を集めた歴史と風情を感じるのではないでしょうか。
この文章を作成するにあたって、以下の文献を引用・参考にしました。
また、文中では敬称を略させていただいております。
引用文献など:
『華族名鑑 新調更正』彦根正三(博公書院、1887)
『華族名鑑 更新調正』彦根正三(博行書院、1891)
『華族名鑑 更新調正』彦根正三(博行書院、1893)
『華族名鑑』博文館、1894
「府内備考 巻十三」『大日本地誌大系 壹』大日本地誌大系刊行会編(大日本地誌大系刊行会、1914)
『藩史大事典 第2巻 関東編』木村礎・藤野保・村上直編(雄山閣出版、1989)
『日本プロレス全史』ベースボール・マガジン社編(ベースボールマガジン社、1995)
『江戸・東京 歴史の散歩道1 中央区・台東区・墨田区・江東区』街と暮らし社編(町と暮らし社、1999)
『図説 江戸・東京の川と水辺の辞典』鈴木理生(柏書房、2003)、
東武鉄道HP 、神谷バーHP
参考文献:
『浅草区誌 上巻』東京市浅草区編(文会堂書店、1914)
『帝都復興史 附・横浜復興記念史、第2巻』復興調査協会編(興文堂書院、1930)、
『帝都復興事業誌 土木編 上巻』復興事務局編(復興事務局、1931)、
『帝都復興区劃整理誌 第1篇 帝都復興事業概観』東京市編(東京市、1932)、
『東京市史稿 橋梁篇第一』(東京市役所、1936)、
『東京繁昌記』木村荘八(演劇出版社、1958)
『台東区史〔社会文化編〕』東京都台東区役所、1966
『台東区百年の歩み』東京都台東区、1968
「三笑亭可楽」『国史大辞典 第六巻』国史大辞典編纂委員会編(吉川弘文館、1985)
『東都噺家系図』橘左近(筑摩書房、1999)
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