五島盛清の独裁【維新の殿様・五島(福江)藩五島家編㉖】

前回は五島藩が担った特別な役目、異国船警護役についてみてきました。

これが、前々回までみた藩主・五島盛利が藩政の確立を強引にすすめた理由の一つだったのです。

今回は、盛利が強引に行ってきた政策の反動ともいえる、弟の盛清の独裁時代をみていきましょう。

五島盛次(もりつぐ・1591~1642)

五島藩三代(宇久家二十二代)五島盛利は、寛永19年(1642)に隠居すると、その後継に長子の盛次をあてて、五島家に長子単独相続のルールを確立したのちに死去します。

盛利のあとを継いで五島藩四代(宇久家二十三代)当主となりました。

前に見たように、大浜主水事件を乗り越えて、藩主盛利はようやく藩政を確立しました。(第19回「大浜主水事件 勃発編」参照)

しかし、その跡を継いだ長男の盛次は病弱だったために、継嗣後も江戸で静養を続けていたのです。

そのあいだ国許では、盛利の弟・守清が独裁的に執政していました。

盛次の国入り

承応3年(1654)に藩主盛次がいよいよ領国に入ることとなったときのことです。

国許を独裁的に取り仕切っていた盛清は、自身の身を案じて、かねてから念願していた旗本への出仕を幕府に申し出て、三千石の知行を要望したのです。

この動きを知った盛次は心痛し、ついに明暦元年(1655)10月に亡くなってしまいました。

そのため幕府は若冠11歳の嫡男万吉、のちの盛勝を襲封させるとともに、盛清を後見役として三千石を与えることで五島家の存続を認めたのです。(以上『物語藩史』『三百藩藩主人名事典』)

富江陣屋跡と城下町、昭和40年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、MKU652X-C23-10〔部分〕)の画像。
【富江陣屋跡と城下町、昭和40年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、MKU652X-C23-10〔部分〕) 写真中央にある2面のグランド付近が五島盛清が築いた富江陣屋跡です。】

五島盛勝(もりかつ・1645~1678)

五島盛次の長男として生まれ、明暦元年(1655)10月9日に父盛次の急死のため、11歳の若さで家督を継ぎました。

幕府は叔父の民部盛清を後見とすることを条件に襲封を許したのですが、父が急死した原因もまた盛清だったから気持ちは複雑だったに違いありません。

そのうえに、のちにみる分知問題でも盛清に振り回されることになるのですから、苦労の多い治世となるのです。

五島盛清の独裁

こうして盛清は旗本の柳間交代寄合の地位につき三千石を得たうえに、さらに5年にわたって独裁的藩政を布きました。

ところで、盛清はどうやって独裁体制を築いたのでしょうか?

じつは盛清を支えたのは、大浜主水事件で失脚したものや、先代盛利に取り潰された佐々野・太田・江といった譜代家臣たちで、今村・玉之浦・桂・藤原の諸氏を行政の中枢部において執行しています。(以上『物語藩史』)

こうしてみると、盛清は「福江直り」による譜代家臣たちの不満を利用して権力基盤を固めていたとみてよいでしょう。

また、盛清の藩政を批判した白浜久右衛門らには弾圧を加えてこれ力でを抑え込みます(白浜久右衛門事件)(『物語藩史』)。

富江陣屋石蔵跡(撮影者:五島高資 Wikipediaより20210901ダウンロード)の画像。
【富江陣屋石蔵跡(撮影者:五島高資 Wikipediaより)】

盛清独裁の功罪

この盛清の独裁は盛次が襲封した寛永19年(1642)10月ころから盛勝が成人する万治3年(1660)12月までおよそ18年間も続きました。

盛清の「治世」は、独裁傾向が強く批判もありました。

そのいっぽうで、明暦3年(1657)1月18日に発生した明暦の大火で江戸上屋敷が全焼したときや、万治元年(1658)9月9日にオランダ人11人が有川村の案中島に漂着したときにも、藩主に代わってみごとに対処しています。

さらに家臣知行体制の改正に努め、藩財政を確立するという大きな業績を残しました。(『三百藩藩主人名事典』)

今回みたように、五島盛清は、藩主の弟で後見役という立場にあって、福江直りや大浜主水事件で虐げられた譜代家臣たちからの支持を受けて、強力な独裁をおこなったのでした。

次回は、盛清が五島藩から分知して、ついに自分の領国を形成するところをみてみましょう。

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