「八甲田山」の真実・事件の原因【紀伊国新宮水野家(和歌山県)46】

前回みたように、世界山岳史上に残る最悪の犠牲者を出した八甲田山雪中行軍遭難事件ですが、陸軍の政治的な思惑で、責任はうやむやにされていきました。

その結果、事件の原因究明や研究も、また遅れることになったのです。

そこで今回は、あらためて八甲田山雪中行軍遭難事件の原因についてみてみましょう。

水野中尉の死因

水野大尉の遺体は明治35年(1902)1月31日に捜索隊に発見され、2月1日夜に屯営に搬送されると、遺族がすぐに遺体を確認しています。

その時の様子が2月5日の報知新聞に「惨死将校水野中尉令弟の談話」に掲載されているのでみてみましょう。

「中尉は襯衣ズボン下各二枚に靴下三枚を着け軍服を着し実家より送られたる防寒衣を身に纏い足に藁靴を穿ちたる儘棒の如く真直に氷結し居られ」

水野中尉は靴下の上に直接わら靴を履いていたのです。

字田茂木野ニ於ル貨物集積所の光景(陸地測量部、1902 青森県立図書館デジタルアーカイブ)の画像。
【字田茂木野ニ於ル貨物集積所の光景(陸地測量部、1902)青森県立図書館デジタルアーカイブ  事件の原因が明らかでない中、捜索活動も危険なものとなりました。】

履物の違いが生死を分ける

新田次郎は『八甲田山死の彷徨』のなかで、履物の違いが生死を分けた可能性をあげています。

大原伍長は倉田大尉と伊東中尉が意外にしっかりしている謎は、二人が履いているゴム長靴だと思った。ゴム長靴という高価な履き物が二人の将校の生命力を支えているのだと思った。(『八甲田山死の彷徨』)

実際、倉田こと倉石大尉はゴム製のオーバーシューズを革靴のうえに履いていました。

また、伊東こと伊藤中尉は私物の厚い藁靴を履いたうえ、靴のうえに呉座を巻いて脚絆のようにして、靴の中に雪が入るのを防いでいたのです。

着用被服調査表によると、短靴を持っていたのは倉石大尉ただ一人でした。

この結果、二人は足の指が凍傷になっただけで済んでいます。

生存者、右から伊藤中尉、倉石大尉、長谷川特務曹長(陸地測量部、1902 青森県立図書館デジタルアーカイブ)の画像。
【生存者、右から伊藤中尉、倉石大尉、長谷川特務曹長(陸地測量部、1902)青森県立図書館デジタルアーカイブ】

藁靴の致命的問題

他の隊員はというと。

靴下の上に直接支給された薄い藁靴を履いていました。

ところが、藁靴を長時間履くと、編み目に入り込んだ雪が体温で解けてわらが濡れ、それがじわじわと広がり、藁靴の中がびちゃびちゃになってしまいます。

そして気温が低いとこれが凍るので、直接肌に触れると容赦なく体温を奪っていくのです。

このため、藁靴が濡れるとすぐに取り換える必要がありますが、予備の藁靴はほとんど支給されていませんでした。

このため、水野中尉がいかに良い上衣を着ていたとしても、足元から危険が忍び寄っていたのです。

八甲田大岳(赤水萢付近)(『十和田・八甲田』青森林友会 編集・発行、1927 国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【八甲田大岳(赤水萢付近)『十和田・八甲田』青森林友会 編集・発行、1927 国立国会図書館デジタルコレクション  五聯隊は夏の八甲田山すら演習経験がほとんどありませんでした。】

異状寒冷現象

事件の原因としてまず挙げられるのが、この時の気象条件です。

ここで長年にわたり中央気象台に勤め、富士山測候所勤務も経験している専門家・新田次郎の説明をみてみましょう。

「だが、全般的な傾向としては、五聯隊指揮官の無能を責めるものは少なく、未曾有の猛吹雪に遭遇したがために起きた止むを得ざる事故であるという論調に変わって行った。事実この時の暴風雪と寒気は記録的なものであった。

異状寒冷現象は第五聯隊雪中行軍隊が出発した一月二十三日の午後からその徴候を現し始めた。北海道に根を据えた高気圧は頑として移動せず、その勢力は東北地方の北部に及んだ。

高気圧の停滞に伴う輻射冷却によって急速な気温低下が起こり、二十五日には北海道旭川においては零下四十一度という、日本における最低気温の記録を出した。

この最低気温は現在に於ても依然として破られずにいる。当時、北海道から東北地方北部にかけての酷寒気団がいかに優勢なものであるかを窺知(さち)することができる。

雪中行軍隊は、たまたまこの頃近くを通過した低気圧による暴風雪とその後に襲って来た寒気団にうちのめされたのであった。」(『八甲田山死の彷徨』)

字田茂木野ニ於ル貨物出発時の光景(陸地測量部、1902 青森県立図書館デジタルアーカイブ)の画像。
【字田茂木野ニ於ル貨物出発時の光景(陸地測量部、1902)青森県立図書館デジタルアーカイブ  捜索拠点が置かれた田茂木野の様子】

人為的原因

気象条件が事件の原因とする新田に対して、これと異なる見解もあります。

伊藤薫は著書『八甲田山消された真実』のなかで、事件の実態をこう記しました。

「無能な指揮官の命令によって、登山経験のない素人が準備不足のまま(厳冬期に)知らない山に登山した」

詳しくは伊藤の著作をぜひ一読いただきたいと思いますが、専門家からみて事故の本質は、新田が思うところとはかなり違うもののようです。

思い返すと、八甲田山雪中行軍遭難事件は、五聯隊の津川聯隊長がメンツにこだわって、経路もわからない状態で訓練不足の部隊に、無謀な演習を命じたことにはじまります。(第38回「八甲田の真実・背景編」参照)

さらに冬山に対する認識不足、経験不足が遭難を決定付けたといえます。(第39回「八甲田の真実・演習計画編」・第40回「八甲田の真実・装備編」参照)

また、前回みた緩慢すぎる救助活動が被害に輪をかけたのも見逃せません。

そのうえ、五聯隊の津川隊長ら幹部の責任回避のための資料改変や捏造にいたっては、開いた口がふさがりません。

こうしてみると、事件から長い年月が流れて、すっかり風化したというよりも、事件の本質部分が現在にも通じるものがあるのに気が付くでしょう。

初雪の八甲田の大観(『十和田・八甲田』青森林友会 編集・発行、1927 国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【初雪の八甲田の大観『十和田・八甲田』青森林友会 編集・発行、1927 国立国会図書館デジタルコレクション  当時の八甲田山は、初雪が降ると人を寄せ付けない土地でした。】

ここまで八甲田山雪中行軍遭難事件の原因についてみてきました。

次回は、世界山岳史上最悪の犠牲者を出した事件の反響と、後継ぎを失った水野男爵家の様子をみてみましょう。

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