小笠原長育登場【勝山藩小笠原家編(福井県)㉚】

前回は、廃藩置県に伴って上京した小笠原長守についてみてきました。

はたして大火をきっかけに、小笠原家も市橋子爵家のように没落してしまうのでしょうか。

そこで今回は、小笠原子爵家の初代長育についてみてみましょう。

小笠原長育とは

まず、越前勝山藩の最後の藩主・小笠原長守の跡を継いだ嫡男の長育とはどのような人物なのでしょうか。

『平成新修旧華族家系体系』によると、長育(ながなり)は安政6年(1859)6月11日生まれで、四男三女の長兄でした。

この兄弟を具体的にみてみると、

姉の鍈は備中国成羽藩男爵山崎治敏に嫁ぎますが、のちに離婚、

二男俊久は大和国柳生藩子爵家の養嗣子、

二女詮子は若尾幾造に嫁ぐ、

三男粲四郎は養子になって細田家を継ぐ、

四男量六郎は山田つねの養子となり、そして三女麗子。

明治6年(1873)5月17日に家督を継いで、慶應義塾大学部を卒業、その後東宮侍従を務めていました。

妻は津軽承叙二女の男鶴と結婚するものの離婚し、田沼意尊二女路と再婚しています。

子どもは、長男勁一、次男牧四郎と、父・長守の末娘の麗子を養女に迎えて越前大野藩子爵土井利剛に嫁がせています。

没年は明治28年(1895)1月9日で、享年37歳の若すぎる死でした。

今上天皇陛下(大正天皇)(『皇室写真帖』皇室写真帖編纂所-編(皇室写真帖発行所、大正11年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【今上天皇陛下(大正天皇)『皇室写真帖』皇室写真帖編纂所-編(皇室写真帖発行所、大正11年)国立国会図書館デジタルコレクション】

東宮侍従

『明治過去帳』には東宮侍従正四位子爵とし、明治15年(1882)修史館准奏任御用係を拝命、明治21年(1888)頃に明宮勤務とあります。

夫人能子は従五位戸田康泰の妹で、長育との間に長男の勁一が生まれたとして『平成新修旧華族家系体系』の記載と異なっているのが気になるところ。

また、明宮勤務とは、『朝日新聞』(大阪版朝刊 明治19年(1886)11月18日付)に「明宮勤務被付年俸二百四十円下賜」のなかに、伯爵の松浦靖と日野資秀、子爵の有馬道純、徳大寺公弘、竹屋光富とともに任命されたことが記されています。

さらに、『朝日新聞』(東京版朝刊 明治22年(1889)11月8日付)には明宮が皇太子となったことで明宮勤務から東宮侍従に子爵大宮以季、勘解由小路寛承ともに叙任辞令を受けたことが掲載されています。

立花種恭(Wikipediaより20211012ダウンロード)の画像。
【立花種恭(たねゆき)(Wikipediaより20211012ダウンロード)旧筑後国三池藩主。維新後は学習院初代学長、華族会館副幹事、貴族院議員などを歴任し、華族の重鎮的存在。長育とは、華族同方会を通じて知古であったようです。】

子爵会

ほかにも新聞記事を拾ってみると、『朝日新聞』(東京版朝刊 明治22年(1889)7月16日付)雑報欄に、長育が子爵会の委員に選ばれたことが記されています。

これによると、同年7月9日上野公園華族会館において子爵会委員15名を選ぶ選挙を行った結果、勘解由小路資生、谷干城、青木周蔵、立花種恭、堀田正養などとともに15名の委員の一人に選らばれていますが、この委員とは子爵会の運営を担当するもののようです。

さらに『朝日新聞』(東京版朝刊 明治22年(1889)11月6日付)には、長育ら数名が子爵会の委員に再選されていますが、委員の人数は激減しています。

これ以後、子爵会に関する記事は見られなくなりますので、目的が似通った華族同方会に移っていったようです。

そして長育も活動の軸を移しました。

ちなみに、帝国議会設立ののち、子爵の貴族院議員によって新しい子爵会が誕生したとする資料もありましたが、これは親睦会に類するものでしょうか。

青木周蔵(「近代日本人の肖像」国立国会図書館より)の画像。
【青木周蔵(「近代日本人の肖像」国立国会図書館より)明治時代を代表する外交官の一人。不平等条約改正に尽力しました。華族同方会で講演も行っています。】

華族同方会

華族同方会とは、伊藤真希「華族が組織した成人学習の機会」(『生涯学習研究e事典』)によると、明治17年(1884)に、交際を通じて華族の結合を深める目的で家族同志懇親会が組織されたことにはじまります。

その後、会員数を増やして明治22年(1889)には華族同方会と名称を変更、明治20年(1887)ころからは華族会館を常会場として月に二度、講師や会員による演説会が行われました。

また、華族同方会の設立目的は華族の本分を研究することでしたが、上院(貴族院)開設が迫っていることもあって議会開設後の華族の在り方へと模索するものとなったのです。

そのため、華族同方会の活動内容は、専門家の講演だけでなく、会員自身による演説などの能動的学習が求められていました。

この要求に積極的に答えたのが長育で、華族の本分を問う内容の講演や論文発表を行ったのです。

今回みたように、東宮侍従を務めるかたわら、長育は華族同方会を中心に積極的に活動していました。

長育の主張は、華族とは何か、華族はどうあるべきかを問うものだったのです。

そこで次回は、長育の華族論の中身をみてみましょう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です