橋の記憶・町の記憶 高砂橋(たかさごばし)編 ④

さて、前回まで高砂橋の歴史を見てきました。

高砂橋想像図の画像。
【高砂橋想像図】

わずか17年の短い間ですが、古風で無骨な高砂橋を渡って、子供たちがおしゃれな久松小学校へと通う姿は、きっとほほえましい風景だったのだろうと私は想像するのです。

きっと昔ながらの木橋である高砂橋と当時最新の建築物の復興小学校とのギャップは、味わい深い光景だったに違いありません。

元高砂橋想像図の画像。
【元高砂橋想像図】

しかし、高砂橋も元高砂橋もなくなり、久松公園も消滅してしまいましたが、久松小学校の歴史は続きます。

久松小学校のHPを見てみると、

「昭和38年(1963)3月 天皇皇后両陛下(当時)の行幸啓を仰ぎ、創立90周年記念式典を挙行」、

「昭和48年(1973)10月 皇太子同妃両殿下(当時)の行幸を仰ぎ、創立100周年記念式典を挙行」、

「昭和57年(1982)11月 浩宮徳仁親王殿下(当時)のお成りを仰ぎ、開校110周年記念式典挙行」、

「平成4年(1992)3月 秋篠宮同妃両殿下のお成りを仰ぎ、開校120周年記念式典挙行」、

という風に、長い歴史を有する名門校(公立ですが)らしく、華々しい歴史的行事が行われています。

久松小学校玄関の画像。
【中央区立久松小学校】

そして昭和48年(1973)3月には新校舎が完成、これがまた機能優先のちょっと特徴のない建物で・・・なんて思ってみていると、少し驚きました。

玄関部分は復興建築だった前の校舎の面影を残しているのです。

ちょっと嬉しくなったところで、久松小OBからさらにうれしい話を聞きました。

大正時代の久松小学校校舎の画像。
【大正時代の久松小学校】

じつは久松小学校は、設立時にお世話になった松山市や久松家との交流を続けているというのです。

「平成15年5月 愛媛県松山市より久松家第十八代当主・久松定成氏ご夫妻をお招きして校友会・松友会共催で久松小学校において「久松家に感謝する会」を開催」、確かに久松小学校HPにも記載されています。

自分たちの学校や地域の歴史を大切にしている久松小学校ってすばらしいなあ、と思うのでした。

そこにちょっとだけでも、かつての浜町川やそこに架かっていた橋たちにも思いをはせてくれたら、私はそう強く願うのでした。

この文章を作成するにあたって、以下の文献を引用・参考にさせていただきました。(順不同、敬称略)

また、文中では敬称を省略させていただきました。

引用文献:『東京市教育施設復興図集』東京市編(勝田書店、1934)、『中央区史 上巻・下巻』(東京都中央区役所、1958)、『中央区文化財調査報告書 第5集 中央区の橋・橋詰広場-中央区近代橋梁調査-』(東京都中央区教育委員会教育課文化財係、1999)、東京都中央区立久松小学校HP

参考文献:『帝都復興史 附・横浜復興記念史、第2巻』復興調査協会編(興文堂書院、1930)、『帝都復興事業誌 土木編 上巻』復興事務局編(復興事務局、1931)、『帝都復興区劃整理誌 第1篇 帝都復興事業概観』東京市編(東京市、1932)、『東京市史稿 橋梁篇第一』(東京市役所、1936)、石川悌二『東京の橋 -生きている江戸の歴史-』(新人物往来社、1977)、『千代田区史 区政史編』(千代田区総務部、1998)、伊東孝『東京の橋―水辺の都市環境』(鹿島出版会、1986)、鈴木理生『図説 江戸・東京の川と水辺の辞典』(柏書房、2003)、本田創『東京暗渠学』(洋泉社、2017)

次回は栄橋です。

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