津山藩浜町中屋敷・松平子爵家蛎殻邸跡を巡る【維新の殿様 松平家・津山藩(岡山県)⑮】

≪最寄駅:東京メトロ半蔵門線・水天宮前駅≫

安政2年(1855)に慶倫が津山松平家を相続した時、津山藩には鍛冶橋に上屋敷高田に下屋敷深川西大工町と谷中本村に抱屋敷(私有地)と砂村新田に広大な抱地(私有地)がありました。

また、松平斉民(確堂)には隠居所として蠣殻町に浜町中屋敷を賜ったうえに、これと接する清水家屋敷を預けられるとともに、姿見邸を構えていたのです。(『津山市史 第5巻-幕末維新-』)

今回は浜町中屋敷跡と周辺を歩いてみましょう。(グーグルマップは津山藩浜町中屋敷跡・松平子爵家蠣殻邸跡にあたる蠣殻町公園を示しています。)

コースマップの画像。
【コースマップ】
水天宮の画像。
【参拝客でにぎわう水天宮】

スタートは水天宮

スタート地点の東京メトロ半蔵門線・水天宮駅の5番出口から出ると、右手に高い基壇の上に神社が建っているのが見えてきました。

これが安産の神様として信仰を集める水天宮で、いつも多くの参拝客で賑わっています。

水天宮とは、福岡県久留米市に本宮あって、これを歴代久留米藩主が崇敬、そこで文政元年(1818)江戸の三田上屋敷に分祠してこれを祀ったところ、たいそうな人気となって、「情け有馬の水天宮」という地口にまでなりました。

廃藩置県によって有馬家の邸宅が移転するのに合わせて水天宮も一時赤坂に遷った後、明治5年(1872)にかつての久留米藩中屋敷に遷座し、現在に至っています。

ちなみに、有馬家と水天宮の深い縁は今も続いて、2016年には有馬家当主が宮司を務めていました。

さて、水天宮を出て新大橋通りを東へ、森下方面に進みましょう。

津山藩浜町中屋敷跡・松平子爵家蛎殻邸跡

およそ100mで中華料理屋さんのある角に到着、この辺りが浜町中屋敷の北西角にあたり、そこからさらに100mほど進むと、新大橋通りと浜町川緑道・首都高速向島線清洲橋出口の交差点に到着です。

「中之橋」(『日本橋区史 参考画帖第1冊』東京市日本橋区編(東京市日本橋区、1916)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「中之橋」『日本橋区史 参考画帖第1冊』東京市日本橋区編(東京市日本橋区、1916)国立国会図書館デジタルコレクション】
中之橋跡の画像。
【中之橋跡】

浜町川緑道が新大橋通りを境に首都高速向島線清洲橋出口になっていますが、ここは元和年間(1615~23)に開削された浜町川という掘割が流れており、そこに中之橋が架かっていたのです。

この中之橋は延宝年間(1673~81)に周辺に屋敷を構える大名たちが資金を出し合って組合をつくり架けた橋で、「組合橋」という別名を持っていました。(『東京の橋』)

ここから見渡しても、浜町川を挟んでトルナーレの高層ビルが建つところはかつての薩摩藩邸ですし、斜め向かいは紀伊新宮藩水野家屋敷のちに久松伯爵邸、そのほかにも肥後熊本藩細川家など、諸侯の屋敷や邸宅が並んでいたのです。

また、元禄6年(1693)に隅田川に新大橋が架けられると、この橋が本所と江戸の中心部を結ぶルートとなって交通量が増加し、町が賑わうようになりました。

その後、浜町川は首都高速道路6号線の浜町出口の用地となって昭和47年(1972)に埋め立て消失、この時に中之橋や浜洲橋、川口橋も廃されて今はありません。

ただし、中之橋の名は、近くの清洲橋通と新大橋通りの交差点に移されて残っています。

「浜洲橋」(『帝都復興史・附横浜復興記念史-第1巻』復興調査協会編(興文堂書院、1930)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「浜洲橋」(『帝都復興史・附横浜復興記念史-第1巻』復興調査協会編(興文堂書院、1930)国立国会図書館デジタルコレクション)】
浜洲橋跡と有馬小学校の画像。
【浜洲橋跡と有馬小学校】

有馬小学校

ここで浜町川跡に沿って南に曲がりましょう。

最初の信号が、大正15年(1926)に関東大震災からの復興事業で架けられた浜州橋の跡で、その南に有馬小学校の校舎が見えてきました。

有馬小学校は、明治6年(1873)に久留米藩主有馬頼咸の寄付を受けて創設された小学校で、校名も有馬家にちなんで名づけられています。

設立時は新大橋通り沿いに造られましたが、関東大震災で焼失し、現在地に移りました。

「有馬尋常小学校玄関」(『東京市教育施設復興図集』東京市編(勝田書店、昭和7年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「有馬尋常小学校玄関」『東京市教育施設復興図集』東京市編(勝田書店、昭和7年)国立国会図書館デジタルコレクション】
有馬小学校の画像。
【有馬小学校】

有馬小学校は近隣の中之橋や川口橋とともに、『少年』『ふるさと』など谷崎潤一郎が作品にしばしば取り上げています。

有馬小学校の南東隅が、かつて浜町川と箱崎川が合流していたところで、浜町川には川口橋、箱崎川には男橋と女橋が架かっていました。

橋が近接するこの辺りは、永井荷風が「水はあたかも入江の如く無数の荷船は部落の観をなし薄暮風収まる時競って炊烟を棚曳すさま正に江南沢国の趣をなす」(『日和下駄』)と評したように独特の風情があったようで、岡本かの子『生々流転』にも登場しています。

「女橋より河口橋を望む」(『日本橋区史 参考画帖第1冊』東京市日本橋区編(東京市日本橋区、1916)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「女橋より河口橋を望む」『日本橋区史 参考画帖第1冊』東京市日本橋区編(東京市日本橋区、1916)国立国会図書館デジタルコレクション】

蛎浜町公園

この角を西に曲がってかつての箱崎川沿いを100mばかり行くと、ガラス張りのビルが建つ丁字路に至り、道の反対側には細長い蛎浜町中央公園が、ロイヤルパークホテルの裾を北に延びているのが見えてきました。

この公園の石組は、ホテル建設時に出土した大名屋敷のもので、江戸時代からの歴史が垣間見えてちょっと嬉しくなってきます。

この公園を進んで端まで行くと、道をはさんで立派な冠木門を持つ公園に到着しました。

ここが蛎浜町公園で、先ほど見た有馬小学校のちょうど裏に出てきたことになります。

この公園の入り口に、蛎浜公園由来の碑があって、この中で「松平三河守」、つまり津山松平家九代目藩主慶倫時代の藩邸のことが記されているのが見えました。

そこで、休息がてら、改めて津山藩浜町中屋敷についておさらいしてみましょう。

蛎浜町公園の画像。
【蛎浜町公園】
「浜町中屋敷」(『神田濱町日本橋北之圖』影山致恭(尾張屋清七、嘉永3年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「清水殿」とあるのが後の津山藩浜町中屋敷(『神田濱町日本橋北之圖』影山致恭(尾張屋清七、嘉永3年)国立国会図書館デジタルコレクション )】

津山藩浜町中屋敷

ここ蛎浜町に津山藩が屋敷を拝領したのは幕末、八代目藩主斉民の時代だとみられます。

この斉民が将軍の子供であったことから、津山藩は幕府から様々な便宜を受けているのですが、その一環なのかもしれません。

そして斉民が安政2年(1855)に養継子の慶倫に家督を譲って確堂を号し若隠居した時には、浜町中屋敷と隣接する清水家屋敷が隠居所として御預けとなって、浜町中屋敷と一体的に運用されるようになりました。(『津山市史 第5巻』)

幕末から明治初めに確堂がこの浜町中屋敷を拠点として大活躍したことは、前にも述べたところです。(第7回「長州征伐と確堂の大活躍」参照)

その後の流れを、『津山市史 第5巻-幕末維新-』で見ていきましょう。

慶応4年(1868)9月5日に新政府は藩邸の整理方針を発表し、その整理に着手しました。

するとすぐに、津山藩は浜町大川端中邸7,589坪余の下賜を願い出ます。

これは、津山藩浜町中屋敷と清水家中屋敷を合わせた範囲について申請したのでしょう。

そして早くも3か月後の明治元年11月には浜町屋敷と隣接する清水家屋敷は預け置くとの達しが弁事官から下されています。

さらにこのあと、東京市から確堂が賜った私邸を買い上げが打診されるもののこれを拒否、逆に明治4年には津山藩が永拝領、つまり実質的な下賜を願い出たところ、許可されたのです。

「箕作秋坪」(『苫田郡誌』苫田郡教育会編(苫田郡教育会、昭和2年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「箕作秋坪」『苫田郡誌』苫田郡教育会編(苫田郡教育会、昭和2年)国立国会図書館デジタルコレクション】

三叉学舎

じつは新政府のこの対応には理由がありました。

明治元年(1868)、幕臣だった箕作秋坪は箕作家を長男の奎吾に譲って隠居すると、浜町大川端津山藩邸内に家塾「三叉学舎」を開きます。

なんと、そこで教えていたのは当時最先端の「英学」つまり英語だったのです。

内容は、秋坪が欧米人から学んでアップデートした洋学に加えて英語も教授していて、三叉学舎は福沢諭吉の慶應義塾と「洋学塾の双璧」と並び称される存在でした。

ちなみに三叉の名は、日本橋川と隅田川が合流する附近を指す名称で、古くから景勝地として知られていたところ、浮世絵の題材にもなっています。

この三叉学舎には多い時には100人を超える塾生がいて、その中には東郷平八郎やのちの「平民宰相」原敬、日本で最初の国語辞典を作った大槻文彦など、多様な人材を輩出して日本の近代化に大きく貢献したのです。(『津山市史』)

津山藩がこのことを前面に立てて申請したうえに、新政府も秋坪の私塾に期待するところがあったために、すんなり申請が許可されたのかもしれません。

ちなみに、秋坪は明治6年(1874)に森有礼らと明六社を設立するなど在野で活躍しますが、明治12年(1879)に福沢諭吉、西周らと東京学士院を設立して以降は再出仕し、国立の教育博物館(現在の国立科学博物館)館長や東京図書館(現在の国立国会図書館)の館長などを歴任したあと、明治19年(1886)に死去してました。

松平子爵蛎殻邸(「明治東京全図」明治9年(1876)国立公文書館デジタルアーカイブ )の画像。
【「松平康倫」と記載されているのが松平子爵蛎殻邸(「明治東京全図」明治9年(1876)国立公文書館デジタルアーカイブ )

松平子爵家蛎殻邸

こうしてかつての津山藩中屋敷と清水家中屋敷が津山松平家に下賜されると、それまで浜町大川端藩邸と呼んでいたものを、町名に合わせて蛎殻邸と変えて本邸としています。(『津山市史』)

その後、地籍図では大正時代元年に、東京市日本橋区蠣殻町三丁目に新材木町の杉村音兵衛名義の宅地1筆6,213.45坪をはじめ、蛎殻邸の敷地と思われる場所に松平家の名はありません。(『東京市及接続郡部地籍台帳』東京市調査会、1912)

地図情報と合わせて考えると、明治時代の半ばまでに蛎殻邸の土地は売却されたとみてよいでしょう。

また、華族の名簿類をみると、松平子爵家は本邸を明治11年(1878)には一時的に本所区亀沢町に移したのち、明治12年(1879)からは本郷区龍岡町の本郷邸へと移しています。

先ほど見た三叉学舎も明治13年(1880)ごろに廃止されたようですので(津山洋学資料館HP)、蛎殻邸の廃止と運命を共にしたのかもしれません。

ここまで津山松平家の浜町中屋敷、のちの松平子爵家蛎殻邸についてみてきました。

それでは、そろそろ帰路につきましょう。

蠣殻町公園を出て前の道を北上、最初の信号がある四つ角を左折して100mほど進むと、水天宮通りに出てきますので、これを右折しておよそ100m、秋葉原方面に進みます。

この辺りが谷崎潤一郎の記す「水天宮裏の魔窟」(『序〔近松秋江「黒髪」〕』)なのかもしれないと、辺りを見回してみるのですが、その面影は全く残っていません。

「谷崎潤一郎」(『文壇人物評論』正宗白鳥(中央公論社、昭和7年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「谷崎潤一郎」『文壇人物評論』正宗白鳥(中央公論社、昭和7年)国立国会図書館デジタルコレクション】

そうこうしているうちに、水天宮下のスタート地点に戻ってきました。

東京メトロ半蔵門線水天宮駅5番出口から出発して日本橋蛎殻町2丁目をぐるっと一回りして出発地に戻る今回のコースは、ずっと平坦で気軽な散歩、所要時間は蠣殻町公園でたっぷり休んでおよそ1時間でした。

文学作品に見る津山藩浜町中屋敷と松平子爵家蛎殻邸

振り返ってみると、この地に津山松平家が広大な邸宅を構えたのは、確堂が清水家中屋敷を預かって以降のおよそ30年間でした。

最後に、江戸っ子たちはこの邸宅をどう見ていたのか見てみましょう。

近くで生まれ育った長谷川時雨は、『旧聞日本橋』の中で明治20年ごろの松平子爵家蛎殻邸のことを「三河様の邸跡は大樹が森々として」いたと記しています。

現在は浜町公園となっている細川侯爵邸と松平子爵家蛎殻邸を並べ称していますので、当時は両者が地域のランドマーク的存在であったことを今に伝えてくれます。

しかし、実はこの頃すでに松平子爵家は本郷に移っており、この土地も譲渡されていたのです。

それでもこの地は、松平慶倫が三河守だったことに由来する「三河様」という名で呼ばれ続けるほど、地域の住民にとって津山松平家の存在が強烈に印象に残ったのかもしれません。

長谷川時雨(Wikipediaより20210317ダウンロード)の画像。
【長谷川時雨(Wikipediaより)】

この文章を作成するにあたって、以下の文献を引用・参考にしました。

また、文中では敬称を略させていただいております。

引用文献など

『日本橋区史 第1冊』東京市日本橋区編(東京市日本橋区、大正5年)

『東京市及接続郡部地籍台帳』東京市調査会(1912)

「日本橋旧聞」『長谷川時雨全集』(日本文林社、1941~42)

『中央区史 上巻・下巻』(東京都中央区役所、1958)、

『津山市史 第5巻-幕末維新-』津山市史編さん委員会(津山市役所、1974)

『東京の橋 -生きている江戸の歴史-』石川悌二(新人物往来社、1977)

『角川日本地名大辞典 13 東京都』「角川地名大辞典」編纂委員会(角川書店、1988)、

『江戸・東京 歴史の散歩道1 中央区・台東区・墨田区・江東区』街と暮らし社編(街と暮らし社、1999)

『中央区文化財調査報告書 第5集 中央区の橋・橋詰広場-中央区近代橋梁調査-』(東京都中央区教育委員会教育課文化財係、1999)

『藩史大辞典 第6巻 中国四国編』木村礎・藤野保・村上直(雄山閣、2015)

「序〔近松秋江「黒髪」〕」『谷崎潤一郎全集 第二十巻』谷崎潤一郎(中央公論新社、2015)

『日和下駄 一名東京散策記』永井荷風(講談社(文芸文庫)、2017)

津山洋学資料館HP

次回は、津山藩高田下屋敷跡地を訪ねてみましょう。

トコトコ鳥蔵ではみなさんのご意見を募集しております。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です