王直の来島【維新の殿様・五島(福江)藩五島家編⑧】

前回は朝鮮半島で猛威を振るった「前期倭寇」についてみてきました。

今回は、明を苦しめた「後期倭寇」をみてみましょう。

北虜南倭

ここでいったん中国大陸に目を転じましょう。

モンゴル族の征服王朝だった元を北に追って、朱元璋が1368年に明王朝を建国しました。

明太祖洪武帝(朱元璋)画像(Wikipediaより20210828ダウンロード)の画像。
【明を建国した朱元璋 (明太祖洪武帝像:Wikipediaより)】

この明も、朝鮮半島と同様に倭寇の被害に苦しみ、北方のモンゴル人と合わせて明朝を悩ます外患を「北虜南倭」と呼ぶまでになったのです。

というのも、明は、海禁政策をとって人民が海上に出ることを禁じ、貿易を朝貢のみに制限して海外との自由な交易を許しませんでした。

活発化する東アジア貿易

しかし、中国経済は交易を前提として発展していましたし、これまで東シナ海で莫大な収益を上げていたものたちが黙って従うはずもありません。

こうして密貿易を行うものが急増し、武装してときには海賊行為を行うまでになっていきました。

さらに、ポルトガル人が東南アジアから東アジアにまで交易活動を広げてきましたが、これを明朝が公認するはずもありませんでしたので、密貿易の輪に加わることとなったのです。

これに加えて、銀の産出量が増えたことを背景に、日本の商人たちも中国との交易に力を入れました。

これらすべてをひっくるめて明朝は倭寇と呼んだのですが、密貿易でしたので取り締まりを逃れるために武装をし、場合によっては海賊行為さえも行いました。

【グーグル・ストリートビューは王直が残した六角井戸(金網がかけられたところ)】

王直の五島来航

そんなおり、中国人の「倭寇」の頭目だった王直が、明の取り締まりから逃れて日本に拠点を移すことをもくろみます。

そこで、王直が目を付けたのが五島でした。

天文9年(1540)に王直は深江(福江)に来航し、領主宇久盛定に通商を求めてきたのです。(『日本地名大事典』)

盛定は王直を歓待して通商の密約を結び、居城である江川城と福江川を挟んだ対岸の高台に土地を与えました。

王直はここに屋敷を構えて航海の安全を祈る廟堂を立て、巨大な六角井戸を作っています。(『長崎県の歴史散歩』)

のちの平戸時代には、王直は300人の部下を従えて大船に乗り、その党類は2000人に及んだといいますから(『大学的長崎ガイド』)、その勢力の大きさがうかがえるのではないでしょうか。

五島が有名に

また、王直が本拠を置いたことで、五島の名は中国で広く知れ渡るようになったのも当然なのかもしれません。

じっさい、このころ中国で作られた『日本図纂』の「日本図」では、五島列島が九州と同じくらいの大きさに描かれていて、明人の五島列島への関心の高さがうかがえるのです。(「海外刊行の日本の古地図」)

その後、王直は天文10年(1541)には松浦氏の求めに応じて拠点を平戸に移しましたが、じっさいは平戸と五島を往復して、自分の居場所を知られにくくしていたようです。(『海の国の記憶』)

永禄2年(1559)には明国において謀殺されてしまいますが、彼が作った六角井戸は現在も五島市唐人町に残っています。(『日本地名大事典』『長崎県の歴史散歩』)

安平古堡の鄭成功像(Wikipediaより20210828ダウンロード)の画像。
【安平古堡の鄭成功像(Wikipediaより) 鄭成功は平戸生まれ、中国人倭寇の頭目・鄭芝龍と日本人の母との間に生まれたと伝えられています。】

王直の死後も、しばらく倭寇のネットワークは維持されて、日本でも「国姓爺」として人気を博した鄭成功に受け継がれることになります。

今回は、明を苦しめた「後期倭寇」についてみてきました。

次回は、王直が去った後に五島を訪れた宣教師たちの時代をみてみましょう。

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