細川子爵家誕生【維新の殿様・常陸国谷田部藩(下野国茂木藩)編 ⑤】

前回、財政状況の劇的に改善、新しい基幹産業も育って、先行きが明るくなった谷田部藩をみてきました。

しかし明治という新しい時代の到来は、思わぬ展開を見せることになります。

今回は明治維新後の谷田部藩(茂木藩)についてみていきましょう。

茂木陣屋跡(Wikipediaより20210410ダウンロード)の画像。
【茂木陣屋跡(Wikipediaより)】

版籍奉還と茂木藩誕生

明治2年(1869)6月22日、興貫は版籍奉還を行い、谷田部藩知事に任じられています。

財政状況の劇的に改善、新しい基幹産業も育って、さあこれからと思ったのでしょうか。

明治3年(1870)12月、興貫は谷田部から茂木に藩庁を移し、藩名を茂木藩と改称することを願い出で新政府に認められると、翌明治4年(1871)2月6日、藩庁を谷田部から茂木に移し、茂木藩と改称します。

「廃藩置県」(『明治天皇聖徳大鑑』明治天皇聖徳奉賛会編(明治天皇御写真帖刊行会、1936)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「廃藩置県」『明治天皇聖徳大鑑』明治天皇聖徳奉賛会編(明治天皇御写真帖刊行会、1936)国立国会図書館デジタルコレクション】

廃藩置県の衝撃

ところがその矢先、明治4年(1871)7月14日、廃藩置県により茂木藩のうち茂木領は茂木県となり、11月13日に廃止されて宇都宮県に統合された後、明治6年(1873)に栃木県に統合されています。(『角川日本地名大辞典 栃木県』)

再生したとたん、細川家茂木藩(谷田部藩)は消滅してしまうとは!

興貫もさぞやガックリしたと思いきや、実はそうでもないようです。

ちなみに、明治4年(1871)11月に谷田部領は新治県に統合された後、明治8年(1875)に茨城県に編入されました。(『角川日本地名大辞典 茨城県』)

そして谷田部陣屋は廃藩のあと廃城となり、取り壊されて陣屋敷地は学校用地に当てられ、現在も谷田部小学校が建っているのです。

陣屋の御殿は、しばらく筑波郡役所として使用されたあと、玄関のみ現在も公民館玄関として使用されているほか、陣屋門は民家の門として移築されて残っています。

明治4年2月に藩庁となった茂木陣屋は、廃藩のあと廃城となり、建物は払い下げられて取り壊されました。(「廃城一覧」)

細川興貫子爵(Wikipediaより20210324ダウンロード)の画像。
【細川興貫子爵(Wikipediaより)】

維新後の興貫

興貫は明治4年(1871)に廃藩置県が断行されたのに伴って東京に召集されると、宮中祗候青山御所勤番明宮祗候等に任じられています。(『人事興信録初版』)

そして上京してからは、東京本郷区駒込千駄木林町三十三番地(現在の文京区千駄木3丁目)に居所を構えていました。(『華族名鑑』『華族類別譜』)

この年に華族令が公布されて興貫が子爵に叙され、細川子爵家が誕生しています。

そして明治20年(1887)には居所を東京本郷区弓町一丁目七番地(現在の文京区本郷2丁目本郷台中学校付近)に移し(『華族名鑑 新調更正』)、明治24年(1891)ころまで住んでいました。

この頃、嫡男の興嗣が旧肥前国平戸藩主・子爵松浦脩の長女・峯子と結婚して東京都本郷区丸山新町二十番地(現在の文京区白山1丁目24付近)に新居を構えています。

貴族院議員時代

第1回帝国議会が招集された明治23年(1890)から、日露戦争がはじまった明治37年(1904)まで貴族院議員を務めました。(『議会制度七十年史』)

また、興貫が貴族院議員を務めていた明治24年(1891)頃に居所を東京府浅草区今戸町十一番地に変えています。(『華族名鑑 更新調正』1891)

そして明治40年(1907)9月11日に興貫はこの今戸屋敷で息を引き取りました。

死に際して興貫には正三位に叙されています。(『官報 1907年9月13日』)

細川子爵家の財務状況

ところで、興貫はどのようにして収入を得ていたのでしょうか?

興貫が議員を務めた明治23~37年(1890~1904)の15年間は貴族院議員には衆議院議員と同額の給与が出るので、これで十分生活をまかなえたのは言うまでもありません。

また、明治9年(1876)秩禄処分では政府から秩禄に合わせて公債が支給されていました。

この間、細川子爵家の状況を見てみると、旧谷田部藩の石高一万六千三百十九石余に対して禄券一万四千三百四円余、財産は銀行株券八十七株のみで所得税なし、財産なしとなって(『華族名鑑 新調更正』1891)、興貫が死去した時にも変化がありません。

「第二回仮議院」(『帝国議会議事堂建築の概要』大蔵省営繕管財局編(大蔵省営繕管財局、1936)国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【興貫が今戸から通った議事堂 「第二回仮議院」『帝国議会議事堂建築の概要』大蔵省営繕管財局編(大蔵省営繕管財局、1936)国立国会図書館デジタルコレクション 】

実業家華族・興貫

このように、資産のほとんどない細川子爵家ですが、じつは興貫にはもう一つ、実業家としての顔をもっていたのです。

千代田銀行は明治30年(1897)に東京で設立された銀行、この設立頃から取締役の一人に名を連ねていましたが、ついに頭取にまでなったのです。

ところがこの千代田銀行、「旧飯田藩主堀親篤を専務取締役、旧谷田部藩主細川興貫を頭取、旧吹上藩主有馬頼之、旧西大平藩主大岡忠明、旧佐貫藩主阿部正敏を取締役」といういずれも一万石台の小藩の大名「華族の経営する銀行として一異彩を出」すという経営陣で、「殿様の御商売は今も尚昔しの如きか」と陰口をたたかれる存在でした。(以上、『立身致富信用公録 第6編』)

さらに悪いことに、『人事興信録 2版』によると、興貫は株式会社千代田貯蓄銀行の取締役までも引き受けたうえに、千代田銀行と千代田貯蓄銀行に四男で堀子爵家へ養子に行った親篤も巻き込んでしまうのです。

堀親篤(Wikipediaより20210324ダウンロード)の画像。
【興貫四男の堀親篤子爵(Wikipediaより)】

千代田貯蓄銀行

(株)千代田貯蓄銀行は、(株)谷田部銀行(やたべ ぎんこう)が東京に明治35.6.5移転、明治35年(1902)11月29日に改称したものです。

おそらくこれも旧谷田部藩主・細川興貫子爵が関係する銀行なのでしょうが、なんと親篤が頭取を引き受けた直後に倒産して任意解散したのです。(一般社団法人全国銀行協会・銀行変遷史データベース)

移転して経営の素人の華族を頭取につけたうえに、一ヶ月もたたないうちに解散とは、どうも様子がおかしいとは思いませんか?

しかし、親会社の千代田銀行がまだ存続していましたので、興貫が没した時にはまだ問題は顕在化していなかったのです。

今戸の名士

そして興貫の姉妹は華族に嫁ぎ、娘たちも長女・理が旧西大平藩主子爵・大岡忠明に、二女シズ(鎭)は細川本家熊本藩の家老だった松井男爵家の将之へ嫁いでいます。

先ほど見たように、次男は堀子爵家、三男貫一は亀井男爵家一族の玆監、三男健麿は呉服・木綿問屋山形屋を営む資産家の広田伊兵衛のそれぞれ養子となっているのです。

こうしてみると、興貫は華族としての付き合いや本家への配慮、地元浅草でのつながりと、華族としての声望を獲得した華やかな人生でした。

それが嫡男・興嗣の時代には暗転してしまいます。

次回は細川子爵家受難と再興の時代を見ていきましょう。

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