織田家小幡藩誕生【維新の殿様・出羽国天童藩(山形県) ②】

前回は本能寺の変で危機を迎えた織田家が、次男信雄の働きで再興するまでを見てきました。

今回は、信雄の四男・信良による織田家小幡藩の誕生と、その後の歴史を見ていきましょう。

小幡付近昭和21年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、USA-M105-A-5〔部分に加筆〕)の画像。
【小幡付近昭和21年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、USA-M105-A-5〔部分に加筆〕)】

織田信良(のぶよし・1587~1626)

信良は、天正12年(1587)に信雄の四男として伊勢国で生まれました。

兄の秀雄が早世したために、元和3年(1617)に父・信雄から信良が上野国甘楽・多古・碓氷の三郡にあった所領の二万石を分与されて、上野国・小幡藩を起こします。

小幡織田家は、信長ゆかりの名家として国持ち大名に準じる家格と従四位上左近近衛少将に叙任されるとともに、網代の輿とつま折の傘の特権が与えられました。

はじめは領内の福島に仮陣屋を建造するものの、のちに小幡信定の家臣屋敷跡(現在の群馬県甘楽郡甘楽町小幡)に小幡陣屋の築造に着手、それと同時に城下町を建設するとともに、かんがい用水を整備するなど藩政の確立に努めます。

しかし、そのさなか、在任わずか9年の寛永3年(1626)5月17日に、弱冠43歳で没してしまいました。(『寛政重修諸家譜』『全大名家事典』)

織田信昌(のぶまさ・1625~1650)

信良死去にともなって、家督を信良の長男信昌が継ぐのですが、この時信昌はわずか2歳と幼かったので、信雄五男で信昌の叔父・高長が後見を務めることになりました。(『全大名家事典』)

織田長高(Wikipediaより2020.8.17ダウンロード)の画像。
【織田長高(Wikipediaより)】

高長は、信雄の大和国宇陀郡の松山藩を相続しましたのですが、寛永9年(1632)には信昌との間で宗家争いが発生、これは幕府の裁定で高長に軍配があがってしまいます。

信昌は父信良の事業を継承した陣屋築造も寛永19年(1642)に竣工、これと前後して、寛永14年(1637)に藩独自の縄入検地をおこなって藩政の基礎を固めました。

しかし信昌も慶安3年(1650)7月に、26歳の若さで没してしまいます。(『寛政重修諸家譜』『全大名家事典』)

(グーグルストリートビューは小幡城跡)

織田信久(のぶひさ・1643~1714)

信久は、寛永20年(1643)大和国松山藩主織田高長の四男として松山で生まれました。

信昌に世子がなかったため養嗣子となり、慶安3年(1650)信昌死去に伴って家督を相続します。

信久は、領内の土地開発や池堤建設をおこなったり、山林開墾など農業を奨励して藩政の基礎を確立することができました。

その一方で『土芥寇讎』は信久について「行跡寛々ト見ヘテ、威儀ヨケレドモ、内心侫姧ノ気味有リ。以前ハ内証冨タリシガ、近年勝手不如意ナリト云リ。是ハ美女ヲ愛シ、遊楽酒宴ヲ事トシ、‥‥‥奢リ活計ヲ極ル故ニ、勝手不成ト沙汰有リ」と評しており、低い石高に合わない高い家格もあって、急速に藩財政が悪化してしまったのです。

この信久は、在任64年もの長きにわたる治世の後、正徳4年(1714)に72歳で没しました。(『全大名家事典』『三百藩主人名事典』)

織田信就(のぶなり・1661~1731)

信就は、寛文元年(1661)信久の三男として生まれ、正徳4年(1714)8月、信久死去に伴って54歳で家督を相続し四代藩主となります。

藩財政はすでに破綻状態に近いうえに、助郷訴訟も起きて、その対応に苦慮せざるを得ませんでした。((『全大名家事典』『三百藩主人名事典』))

さらに領内十四ヵ村が年貢諸掛り物の負担減免を訴え幕府直轄領に領地替えを奉行所に嘆願するというかなり情けない事態となってしまったのです。

このため、三ヶ年間の掛り物御免、年貢一割下げ定免と農民に譲歩せざるを得なくなって、藩財政はさらに悪化することになりました。

信就は藩政改革の糸口を見いだせないまま、享保16年(1731)71歳で没しています。(『藩史総覧』『全大名家事典』『三百藩主人名事典』)

整備中の小幡城と城下町、平成27年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、CKT20151X-C1-1〔部分に追記〕)の画像。
【整備中の小幡城と城下町、平成27年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、CKT20151X-C1-1〔部分に追記〕)】

織田信右(のぶすけ・1731~1762)

信右は、正徳3年(1713)に信就四男として小幡で生まれました。

病弱の兄たちに代わって享保16年(1731)7月、父信就の死去に伴って家督を相続しましたが、信右もまた病弱で、藩政を家臣に任せていたといいます。

ついに宝暦6年(1756)には借金が二千六百余両となったうえに、翌宝暦7年(1757)には江戸上屋敷が類焼、藩財政は破綻の危機をむかえます。

そんななか、宝暦12年(1762)に50歳で没しました。(『藩史総覧』『全大名家事典』『三百藩主人名事典』)

織田家小幡藩(天童藩)上屋敷跡地の画像。
【織田家小幡藩(天童藩)上屋敷跡地 東京の都心・丸の内のど真ん中に織田家は幕末まで上屋敷を構えていました。】

続く織田信富(のぶよし・1723~1764)も病弱で在任わずか五年、42歳で没してしまいます。

この信富は病気がちでしたが、生前から藩の行く末を案じるとともに、嗣子がないことから、病床において家老に一族対馬守信栄の四男信邦を養子にするよう言い残しました。

いっぽうの信邦は、藩財政の困窮を乗りきると信富に約束したと伝えられています。(『三百藩主人名事典』)

織田信邦(のぶくに・1745~1738)

七代信邦は延享2年(1745)、一族の幕府高家織田信栄(のぶよし)の四男として生まれました。

先代信富に世子がなかったため、明和元年(1764)6月に末期養子となって、翌7月に家督を相続しています。

前にみたように、藩財政は破綻状態にありましたので、藩政の立て直しはまったなしの急務。

にもかかわらず、藩政改革のやり方をめぐって、先々代信右のころから重臣間の対立が激しく、全く見通せない状況となっていました。

そこで信邦は思い切った手を打ちます。

それは、この危機を打開すべく、学問・兵学に明るい吉田玄蕃を大抜擢して上席家老として、藩政改革の任につけたのです。

ところが次々と思わぬ事態を引き起こし、ついには大事件へと発展し、藩存亡の危機を迎えることになってしまうのですが・・・

続きは次回に見てみましょう。

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