鎌倉・室町・戦国時代の相撲 相撲の歴史②

大相撲 目次大相撲とは?[相撲の歴史]①相撲誕生と相撲節成立②鎌倉・室町・戦国時代の相撲③織田信長と相撲④大相撲の成立⑤近代の相撲⑥現在の相撲

木村清九郎編「相撲大全:古今実録」(明治17年、栄泉社 (国立国会図書館デジタルコレクション))の画像
【木村清九郎編「相撲大全:古今実録」明治17年栄泉社、 国立国会図書館デジタルコレクション】

源平の争乱をきっかけに12世紀からは相撲節は衰退して行われなくなってしまいます。

しかし、それとは逆に、祭礼への相撲奉納は京都からさらに周辺へと広がっていきました。

宇佐・出雲など地方の大寺社では、中央に倣い祭礼の形式を整える一環として、相撲節の様式をまねた相撲が催されています。

相撲のほかに田楽などもいっしょに行われるようになっていきますが、ここからは娯楽として神仏の観覧に奉納される意味合いが強かったことがわかります。

これまで一部の人しか見ることができなかった相撲が、祭礼に参集した人々も神仏とともに観ることができるようになりました。

こうして相撲は観覧する技芸として発展していくことになります。

大阪・高津神社での相撲会の画像。
【大阪・高津神社での相撲会 一無軒道治『浪花鑑』大正13年 だるまや 国立国会図書館デジタルコレクション「高津祭 幷相撲」】

また、地域の寺社で相撲を取ったのは地域の「国相撲人」でした。

さらには郷や村々の寺社でもまねて、近在から人員を徴募して相撲を奉納する事例も増えていきます。

こうして相撲節をまねて相撲が広がった結果、京都を頂点に地方へ広がる相撲と相撲人の序列化が進んでいきました。

またこの時期には相撲は各地でローカルな習俗と集合し、村々の年中行事に組み込まれていきます。

しばしば雨乞や収穫祭などと結びついきましたが、これについては二つの考え方が示されています。

ひとつは元来は相撲は技芸・見て楽しむもので 、あくまでも神仏に見せる技芸として定着するなかでいろいろな神事的意味が付け加えられていったという見方 あったとする説です。

もう一つは、もともと相撲に似た力で鎮める儀礼があり、雨や農耕と関わる神事と相撲が融合したとする説があります。

いずれにせよ、現在の日本各地に相似た相撲神事が分布しているのは、相撲節に由来する都の技芸が各地でその土地の習俗と融合し、新しく伝統が作り出された結果なのです。

「(土俵入)」(春信、1770 大英博物館)の画像。
【「(土俵入)」(春信、1770 大英博物館)】

一方で相撲節の伝統は鎌倉幕府に受け継がれて、武士に奨励されていました。

相撲節を簡略にしたものが、現在でも毎年鎌倉鶴岡八幡宮の祭礼で行われます。

相撲節の伝統は、武家政権によって保存されることとなったのでした。

足柄山の金太郎がクマと相撲を取る画像。
【足柄山の金太郎はクマと相撲を取っていました。相撲が武士の技能であった事実を反映しています。立川焉馬「相撲水滸伝」文政13~天保3年(1830~32)国立国会図書館デジタルコレクション】

こうして盛んになった相撲は、室町時代に入って日本各地で民間行事の「儀礼相撲」として大流行します。

さらには相撲そのものを楽しむ「野相撲」も盛んに行われます。

鎌倉幕府からの伝統と相撲人気から守護大名や戦国大名たちも相撲を奨励し、相撲の巧みなものを抜擢して召し抱えるといったことも行われました。

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