高島秋帆の教え【維新の殿様・近江国仁正寺藩(滋賀県)市橋家③】

前回は市橋家仁正寺藩誕生から江戸時代中頃までを見てきました。

今回は藩中興の英主・長昭の時代からを見ていきたいと思います。

でもその前に、近江国仁正寺藩がどんな藩だったのかをおさらいしておきましょう。

西大路(仁正寺陣屋(日野城))跡と西大路(仁正寺)集落 2011年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、CKK20112-C14A-13〔部分〕)の画像。
【西大路(仁正寺陣屋(日野城))跡と西大路(仁正寺)集落 2011年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、CKK20112-C14A-13〔部分〕 画面下の湖は日野ダムのダム湖、その北にある森が日野城址。その北に見える方形区画が仁正寺の城下町です。】

仁正寺藩ってどんな藩?

仁正寺藩とはどんな藩だったのでしょうか。

陣屋を置いたのが近江国蒲生郡仁正寺、現在の滋賀県蒲生郡日野町西大路で、明治2年(1869)時点で城下町の西大路村は家数2,261軒、人口9,016人(『藩史大事典』)、そのうち家臣については、士85戸、卒25戸(『江戸幕府大名家事典』)。

所領は、近江国蒲生郡内22ヵ村13,493石余、近江国野洲郡内3ヵ村2,249石余、河内国交野郡星田村の一部1,300石の、合計17,004石余。(『蒲生郡志』4)

驚くべきことに、村高は江戸時代を通じてほとんど変わっていません。

領地はすべて豊饒な近畿にあるとはいえ、極めて細かく分かれていて大半が他の大名領や旗本領との相給でしたので、統治が難しい一面もあったとみられます。

仁正寺藩上屋敷(「神田 浜町 日本橋北之図」景山致恭(尾張屋清七、嘉永3年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【仁正寺藩上屋敷「神田 浜町 日本橋北之図」景山致恭(尾張屋清七、嘉永3年)国立国会図書館デジタルコレクション 】

江戸藩邸

江戸藩邸は、いずれも拝領屋敷で、神田柳原元誓願寺前の「柳原の御屋敷」と本所五ツ目(現在の江東区亀戸)の「御下屋敷」にありました。

そして、上屋敷である「柳原の御屋敷」は2,815坪余の広さで元和3年に徳川秀忠より拝領、下屋敷は5,600坪余の広さで寛永2年の拝領、いずれも江戸時代が終わるまで場所や規模は変わっていません。(『蒲生郡志』4)

『占風園四時勝概画譜』(長尾祐寿〔写本〕春・中央部分 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【本所五ツ目下屋敷にあった名園・占風園(『占風園四時勝概画譜』長尾祐寿〔写本〕春・中央部分 国立国会図書館デジタルコレクション)】

ここで問題となるのが上屋敷です。

上屋敷のある神田は火事の多い江戸にあって「悪魔町」といわれるほど火災が頻発した土地(『日本地名大辞典 東京都』)、隣にあった谷田部藩上屋敷は、江戸時代を通じて七度にわたって焼失をくり返した結果、飢饉などの天災も相まって藩財政を極度に圧迫、人口は半減するほど領内農村の疲弊を招いています。(維新の殿様・常陸国谷田部藩編「細川玄蕃頭登場」参照)

仁正寺(西大路)藩上屋敷も同様に焼失を繰り返したとみられますが、これに関しての記載は享保年間(1716~36)の一度しか見られませんでした。

とはいえ、度重なる藩邸建設費は藩財政の重荷になる事は疑いようのない事実です。

ですが、藩財政がひっ迫した様子も見られないのは領地がそれほど豊かだったということなのでしょう。

仁正寺藩について見終わったところで、改めて仁正寺藩中興の英主・七代長昭の時代を見ていきたいと思います。

西大路藩陣屋(『近江蒲生郡志 巻4』滋賀県蒲生郡教育会編(蒲生郡、大正11年)国立国会図書館デジタルコレクション) の画像。
【西大路藩陣屋(『近江蒲生郡志 巻4』滋賀県蒲生郡教育会編(蒲生郡、大正11年)国立国会図書館デジタルコレクション) 】

市橋長昭(ながあき・1733~1785)

長昭は六代藩主長璉の長男として安永2年(1733)4月7日に江戸神田の上屋敷で生まれ、長璉死去に伴って天明5年(1785)12月に遺領を継いで七代藩主となりました。

幼いころから聡明だった長昭は、学問を好み経史に明るい人物だったといいます。

江戸を出たことがなかった長昭は、寛政3年に初めて領国に入りましたが、藩士の気力が振るわないのに大いに驚き、嘆きました。

そこで寛政8年(1796)に仁正寺中町に藩校・日新館を設立し、藩士の子弟に文武を奨励したのです。

藩校では儒学のみならず経書・歴史・詩文・数学など、幅広い学問を教えました。

また、地元の歴史を学ぶ教科書が必要と考えて、領内に住む西生懐忠に地誌『蒲生旧跡孝』を編纂させるなど、独自の教育にも努めています。

いっぽうで武術についても弓・銃・槍と剣術・柔術、そして馬術と三つに分けて訓練するようにしていました。

加えて、享和3年(1803)には大砲の稽古まで始めるという充実ぶり。

長昭のねらい通り、藩士たちは活気がよみがえり、結果としてこれからやってくる激動の幕末への備えとなったのでした。

長昭の博識・聡明ぶりは広く知られるところとなって、鳥取新田藩主池田(松平)定常、佐伯藩主毛利高標とともに、「柳間三学者」と称されるまでになっています。(『江戸幕藩大名家事典』)

この英邁な君主・長昭は惜しまれつつも文化11年(1814)9月27日に42歳で死去しました。

市橋長発(清源寺蔵)(Wikipediaより20210507ダウンロード)の画像。
【市橋長発(清源寺蔵)(Wikipediaより)】

長昭の跡を継いだ八代長発(ながはる・1805~1822)は病弱で、若干18歳で死去。

長発には子がなかったので、酒井左衛門尉忠徳の子を養子に迎えて文政5年(1808)に家督を継ぎ藩主とします。(以上『寛政重修諸家譜』『蒲生郡志』4)

九代藩主・長富の誕生です。

市橋長富(ながとみ・1805~1859)

文化2年(1805)に出羽国鶴岡藩主酒井忠徳の四男として生まれ、子がなかった長発の養嗣子となりました。

これは、先代藩主長発の生母が、酒井忠徳の姪だった縁によるものでしょう。

そして文政5年(1808)2月22日に家督を相続、同年9月1日を以て藩主の座につきました。

そして、天保14年(1843)4月1日に、砲術の名家・高島四郎太夫(秋帆)が幕府から嫌疑をかけられて仁正寺藩に預けられることになったのです。

高島秋帆(『明治工業史 火兵・鉄鋼篇』工業会編(工業会明治工業史発行所、1929)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【高島秋帆(『明治工業史 火兵・鉄鋼篇』工業会編(工業会明治工業史発行所、1929)国立国会図書館デジタルコレクション)】

高島秋帆とは

高島秋帆(たかしま しゅうはん・1798~1866)、通称四郎太夫、長崎の町年寄で砲術の荻野流増補新流師範だった父・茂紀の跡を継いで出島のオランダ人から西洋式砲術を学んで研究開発を行い、高島流砲術をあみ出しました。

天保11年(1840)のアヘン戦争での清国敗北を分析した結果、西洋式砲術の圧倒的優位を認めて『泰西火攻全書』を著わし、西洋式砲術の振興を幕府に進言します。

そして、天保12年(1841)5月には、韮山代官江川太郎左衛門英龍の後援で、江戸・徳丸ヶ原、現在の板橋区高島平で西洋式砲術の演習を行いました。

これが「高島平」の名の由来、どこかで耳にした方もおられるのではないでしょうか。

徳丸ヶ原での演習は大成功となり、幕府から高い評価を得て高島流砲術が幕府に採用されるとともに、長崎会所調役頭取に取り立てられました。

しかしその翌年の天保13年(1842)、今度は幕府の命で幽閉されてしまいます。

この幽閉は、天保14年(1843)からは仁正寺藩市橋家預かりとなったのです。

その後、天保の改革がとん挫した弘化3年(1846)に再吟味されてからは武蔵国岡部藩預かりとなったのは、大河ドラマ「晴天を衝け存じの方も多いのではないでしょうか。

投獄された理由は、長崎会所のずさん極まる会計の責任を取らされたとも、鳥居耀造にねたまれて讒言されたからとも言われますが、諸説あってはっきりしていません。

その後、嘉永6年(1853)のペリー来航とともに許されて、安政3年(1856)には幕府の講武所砲術師範役・具足奉行格に抜擢されて、幕府の軍制改革に力を尽くしています。

「砲術稽古業見分之図」 (板橋区立郷土資料館蔵)(Wikipediaより20210507ダウンロード)の画像。
【徳丸ヶ原(現在の高島平)での演習の様子 「砲術稽古業見分之図」 (板橋区立郷土資料館蔵、Wikipediaより)】

高島秋帆の教え

先ほど見たとおり、高島秋帆は江戸屋敷で2年にわたって幽閉生活を送ることになるのですが、仁正寺藩士たちは長昭の改革以来、向学心に燃えていたうえに、藩校で砲術を学んでいましたので、その第一人者たる高島秋帆に秘かに教えを乞うものが幾人も現れるようになりました。(『蒲生郡志』10)

こうして高島秋帆から2年にわたって教えを受けた仁正寺藩士たちは、彼の砲術をしっかりと吸収しましたので、仁正寺藩は西洋砲術や鉄砲製造に通じた藩としてその名が知られる存在となったのです。

長富隠居

その後、長富は弘化元年(1845)に自身の実家である出羽国鶴岡藩酒井左衛門尉家から当主酒井忠発の弟を養嗣子に迎えると、家督をこの長和に譲ってわずか40歳で隠居し、安政6年(1859)に亡くなりました。(『蒲生郡志』4)

こうして藩中興の英主・長昭の遺産と高島秋帆からの薫陶で、藩士たちの指揮は高く最新の砲術を我がものとするという、いうなれば最高の状態となった仁正寺藩。

そしていよいよ時代は混迷する幕末を迎えようとしていました。

次回では、幕末維新における仁正寺藩の活躍を見ていきたいと思います。

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