前回みたように、杜撰な計画と準備不足の状態で演習へ出発したことから、青森歩兵第五聯隊演習軍は、はやくも深刻な事態に陥っていました。
しかし、指揮官と目された山口少佐は、演習継続を決断します。
そこで今回は、八甲田の吹雪の中で、演習軍の彷徨がはじまるところをみてみましょう。
田代探索
明治35年(1902)1月23日の夕刻、馬立場を出発した演習軍はさらに前進し、鳴沢を超えて田代新湯まであと2kmの地点に到着します。
ここで山口少佐は、水野中尉と田中・今泉両見習士官を田代方面に偵察に出しますが、進路は峻嶮で通過することができないと報告したのです。
出発してから目的地がわからないという状況の中、いよいよ夜を迎えることになります。
第一露営地
田代が見つけられないことで万策尽きた山口少佐は、馬立場東南1kmの現地点で露営を決心します。
部隊の第一露営地到着が18時過ぎ、15時から急速に天候が悪化して吹雪となっていました。
こうして吹雪による暗闇の中で、露営地設営がはじまるものの、設営に必要な物資は大行李にありましたので、本格的設営は大行李到着後と、さらに遅れます。
ところが、部隊の練度が低いうえに、必要な装備がほとんどない状態での設営は、困難を極めました。
一丈、つまりおよそ3m掘っても地面に至らず、途中で掘るのをあきらめてしまったのです。
地面まで雪を掘ることができなかった事実は、演習軍の訓練・知識・装備のすべてにおいてこの演習を行う水準にないことを端的に示しているといってよいでしょう。
しかし、演習軍には容赦なく厳冬期八甲田山の夜が襲い掛かって来るのです。
行李隊の第一露営地到着
ようやく21時ころに橇と荷物を負った兵卒が露営地に到着。
木炭が配られ各壕では暖をとろうと雪上で火を起こします。
ところが、火は熱によって周りの雪を溶かし、沈んだり消えてしまったりで一向に役に立ちません。
この失敗により、演習軍は暖を取ることができなかっただけでなく、満足な食事をとることもできない状況へと追い込みます。
地面まで掘ることができなかった事実が、隊員たちの心と体を疲弊させていったのです。
そうこうしているうちに、青森測量所で18時に気温は-8.3度、風速最大5.8mを観測しています。
第一露営地の気温は推定で-11~14度、風も強かったので、体感温度はさらに低くなっていたのです。
未明の出発
1月24日未明、山口少佐の命で、演習部隊は急遽、出発することになります。
あまりの寒さに耐えかねて、吹雪で進む方向もわからない状態での出発でした。
ついに目的地は田代から変更されて、隊に帰ることにします。
ところが暗闇と吹雪のなか、帰る方向もわからないまま部隊を動かしたのは致命的なミス、これは山口少佐が山で一番やってはいけないことを命じてしまったのです。
先頭を行く神成大尉と伊藤中尉が相談して、進むべき方向のまったくわからない状況で前進しても何のメリットもないと判断します。
そこで、天候の回復を待って改めて出発することとし、回れ右をして露営地へ戻る号令を下し、演習軍を退却させました。
彷徨のはじまり
ところが、部隊は第一露営地を右にみて通り過ぎてしまいます。
じつは佐藤特務曹長が田代の道を知っていると話したのを軽率に信じて、山口少佐が案内を命じたのです。
演習軍は、まず北西に進み鳴沢の北側にぶつかって宿営地に引き返したものの、宿営地目前で北に向かい駒込川に出ました。
そこから川沿いを下って金堀沢、鳴沢と左回りに進み、さらに鳴沢沿いに沢を登り、最後は鳴沢の源に近い場所で停止します。
この場所が第二露営で、演習軍はこの日、駒込川沿いの崖を登り、鳴沢の急な谷を登ってきたのです。
すでに飢えと寒さで演習軍の士気は極端に低下し、昨日来の無理な進軍がたたって疲労が限界に近づいていました。
かろうじて歩くのが精いっぱいとなり、橇を引くのはもちろん、行李を背負う力などあろうはずもなく、荷物は次々と放棄されていったのです。
ついに斃れるものが続出しはじめましたが、そのことを知っても山口少佐は帰りたい一心だったようで、あてもなく歩くことを止めはありませんでした。
ついにはじまってしまった演習軍の彷徨は、さらなる悲劇を引き起こしていきました。
そこで次回は、水野忠宜中尉が死にいたる状況をみてみましょう。
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