前回は、明治時代に藩が消滅してからの五島家をみてきました。
そこで今回は、五島子爵家を継いだ五島盛光についてみていきましょう。
五島盛光(もりみつ・1873~1923)
五島盛主の養嗣子となった溝口直溥六男・歡十郎は、名を五島盛光と改めて、盛主が急逝したことにより、明治27年(1894)1月22日継承しました。(『平成新修旧華族家系大成』)
このとき、盛光は近江国宮川藩堀田宗家の当主・堀田正養子爵の三女・善(明治11年(1878)7月26日生まれ)を迎えています。
この善の母は、堀田正誠の継室となった五島盛成の娘・清です。
つまり、妻の祖父が五島盛成となるのですが、これは五島家の血統を残そうと考えたのでしょう。
また、盛光は東京麻布区我善坊町32を住所としています。
じつは、この南隣が紀伊和歌山藩徳川侯爵家邸。
この時の侯爵家当主・徳川茂承の継室の広子は、盛光の実父である越後国新発田藩溝口直溥の養女であることに注目したいと思います。
盛光の実父である溝口直溥は、16男15女の子だくさん、さらに養女が二人いるなかで、盛光はその末弟でした。
平たく言うと、盛光は叔母さんの家に厄介になった、というわけです。
盛光の兄弟姉妹たちのうち、『人事興信録』の各版と『平成新修旧華族家系大成』で成人したものの顔ぶれをみると、
四男が溝口子爵家の家督を継いだ溝口直正、
八男は伊勢国長島藩増山子爵家を継いだ増山正治、
十四男は信濃国高島藩諏訪子爵家を継いだ諏訪忠元、
二女鋹は備後国福山藩阿部正教の正室、
四女の文は伊予国大洲藩加藤泰址の正室、
七女の幾は陸奥国盛岡藩南部利恭の継室、
十五女の銀は近江国大溝藩分部光謙の正室、
養女は有栖川宮熾仁親王妃董子と、先にみた徳川広子となっています。
また、妻の父である近江国宮川藩堀田宗家の堀田正養子爵も広い人脈を持っていることで知られた人物でした。
このように、五島盛光は、皇室まで広がる大名華族のネットワークのただなかにいることがわかりますね。
このネットワークに支えられて、明治18年(1885)11月から明治22年(1889)までドイツに留学し、明治33年(1900)家督を相続し襲爵しています。(『人事興信録初版』)
五島育英館設立
また、このころに郷土人材の育成を目的とした五島育英館を東京に開設し、旧領民の子弟に対して東京遊学がしやすい環境をつくりました。(五島盛光像の添書)
五島中学設立を支援
さらに、明治31年(1898)7月、南松浦郡五島中学校の設立が許可されると、五島中学校建設のため土地と多額の建築費を寄付しています。(五島盛光像の添書)
盛光の援助がおおいに役立って、明治33年(1900)4月に長崎県立五島中学校が旧石田城本丸に開校しました。
これは、明治17年(1884)開校の長崎中学校、明治33年(1900)開校の島原中学に続く三校目の県立中学校です。
ちなみに、資産家華族として知られた大村伯爵家が明治17年(1884)設立した私立大村中学校、同じく平戸には松浦伯爵家が明治13年(1880)に設立した私立尋常中学猶興館があり、長崎県全体で高等教育に力を入れていたのがわかります。
この盛光による郷土振興策、じつは親戚関係にあった紀州徳川侯爵家をお手本にしたものでしたが、詳しくは第 回「五島子爵家麻布邸跡を歩く」でみることにしましょう。
野依秀市
また、明治36年(1903)には、上京した野依秀一(のちの秀市)を東京屋敷の門番に採用しています。
野依は五島家からの給料で、慶應義塾商業学校に夜学生として入学したのを手始めに、「右翼ジャーナリスト」「言論ギャング」の異名を持つ人物となるのですが、それは第51回「野依秀一の謎」でみることにしましょう。
東京帝国大学卒業
五島盛光に話を戻しまして。
明治30年(1897)4月には長女の知子、明治32年(1899)10月には三女の欽子、明治37年(1904)11月には長男の盛輝、明治38年(1905)12月には四女の和子と、東京帝国大学在学中に子供たちにも恵まれました。
さらに、明治42年(1909)東京帝国大学法科大学を卒業して法学士の称号を得ています。(『人事興信録3版』)
内務省嘱託になる
大学を出た盛光は、内務省嘱託となって、「専ら、感化救済事業の調査に従事」していました。(『読売新聞』明治43年(1910)12月9日付朝刊)
そして、調査の結果を「特殊部落改善と宗教」(雑誌『救濟』)、「細民部落改善事業」(雑誌『慈善』)、「救濟事業に就て」(雑誌『救濟』)と次々と発表しています。
またこのとき、邸宅を東京府豊多摩郡代々幡村代々木283に移していました。
そしてこのころには、明治42年(1909)7月に五女の経子、明治45年(1912)4月に二男の盛寛が生まれて、充実した暮らしを送っていたようです。(『人事興信録 4版』)
こうしたなか、盛光は思い切った行動に出ます。
なんと、東京から五島へと移り住んだのです。
おそらく内務省嘱託として日本各地を回る中で、発展から取り残されていく地方の現実をみたことがきっかけとなった可能性があります。
あるいは、さきほどみた旧領国の五島において教育振興に取り組んだことが成果を上げていたのかもしれません。
次回は、盛光の新たな挑戦についてみてみましょう。
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