前回は、五島藩白金下屋敷跡地の北半分を歩いてみました。
そこで今回は、休憩しながら五島藩下屋敷についてみてみましょう。
五島藩白金下屋敷
五島藩は、正徳6年(1716)までは目黒に下屋敷を下賜されていました。
その後、正徳6年には白金台3,500坪へと移されています。
安政2年(1855)には、3,500坪の下屋敷を白金今里村に拝領し、さらに「下屋敷南方地統に付囲込」した抱屋敷5,328坪と、合わせて8,828坪の屋敷を構えました。
各年代の絵図を比べると、おそらく正徳6年に拝領した下屋敷が幕末まで続いたとみてよいでしょう。
五島藩のお隣さんたち
ついでに、五島藩下屋敷のお隣さんたちをみてみましょう。
「大村丹後守」とは肥前大村藩で、五島家の西隣に下屋敷が置かれていました。
その隣の「松平阿波守」とは阿波国徳島藩蜂須賀家、その下屋敷は外様大藩らしく、広大です。
いっぽう、東隣の「京極佐渡守」とは、讃岐国丸亀藩京極家、その下屋敷が置かれていました。
道をはさんでお向かいが、松平十郎麿こと石見国浜田藩主松平武聰(たけあきら)の広大な下屋敷。
松平武聰といえば、水戸徳川家徳川斉昭の十男にして最後の将軍・徳川慶喜の弟です。
石見国浜田藩へ養子に入ったという徳川家の縁者、下屋敷も広大なのでしょう。
こうしてみると、近隣は大小の差はありますが西国の大名ばかりですね。
明治の五島藩白金下屋敷跡地
明治維新後には五島家は東鳥居坂の上屋敷を下賜されて、この下屋敷は上地となりました。
おそらく、この時に抱地部分の5,328坪もあわせて処分したのでしょう。
このころは白金台にまで都市化が及んでいませんでしたので、そのほとんどが畑となったとみられます。
その後、東京の膨張に伴って交通量の増加した目黒通り沿いに町屋が並ぶようになって、通り沿いが白金台1丁目となっています。
いっぽうで、目黒通りから離れた場所は、白金三光町に編入されています。
高低差の大きいこともあって、畑と林が入り混じる景観がひろがっていました。
白金小学校
そして、明治26年(1893)1月、屋敷跡の一角、白金台1丁目32番地に白金小学校が移転してきます。
白金小学校は明治9年(1876)に荏原郡白金村に設立された学校です。
設立時は男爵大鳥圭介邸の一角にある長屋の43坪にありましたが、生徒数が増加して移転することとなりました。
その後、さらに生徒が増加したために、昭和2年(1927)には南へ150mほど離れた白金今里村22・23・55番地(現在の港区白金4丁目4番地)に移転して現在に至っています。(以上『芝区誌』)
この白金小学校といえば、小林秀雄、大佛次郎、網野善彦、細野晴臣など、名だたる卒業生を輩出した名門校、いまもシロガネーゼ御用達の学校ですね。
五島藩白金下屋敷跡地の開発
話を五島藩下屋敷跡の歴史に戻しまして。
その後、白金三光町は、東京の中心部に近いことから明治時代の後半から急速に開発が始まっています。
町の中央にある高台には、明治41年(1908)聖心女子学院が設立され、次々と様式校舎が建築されていきました。(聖心女学院Webサイト)
また、下屋敷跡地の南部から隣接する高台にかけては、明治38年(1905)に芝区愛宕町から国立伝染病研究所が移転してきます。(東京大学医科学研究所Webサイト)
こうして、教育機関や研究機関が作られると、下屋敷跡地の開発も進んでいきました。
さらに、関東大震災以降は住宅地としての開発が進み、戦後は高級住宅地として知られるようになっています。
今回は五島藩白金下屋敷とその跡地について、歴史をおさらいしてきました。
次回は、五島藩白金下屋敷跡地の南半分に建てられた、旧公衆衛生院をみてみましょう。
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