《最寄り駅:東京メトロ南北線・都営三田線 白金台駅》
安政2年、五島藩は麻布六本木に上屋敷、白金今里村に拝領下屋敷、麻布永坂に借地、白金村に抱屋敷を持っていました。(『江戸幕藩大名家事典』)
じつは、拝領下屋敷3,500坪の南隣に抱屋敷5,328坪を所有していて、この二つは一体で運用されていました。
この屋敷があった場所は、現在の地名表記で港区白金台4丁目4の一部などにあたっています。
そこで今回は、この下屋敷と抱屋敷の周辺を歩いてみましょう。
今回は、最初に下屋敷跡地をぐるっと歩き、次に五島藩白金下屋敷についてみたあと、最後に下屋敷跡に建てられた旧公衆衛生院(現在の港区立郷土歴史館など)をみる順番で、あわせて3編に分けました。
ちなみに、五島藩下屋敷について、当時の呼称がわかりませんでしたので、地域名を冠して白金下屋敷と呼ぶことにします。
瑞聖寺
東京メトロ南北線・都営三田線 白金台駅の2番口をでると、そのすぐ北が五島藩下屋敷の南端に当たる場所です。
目黒通りのむこうには、江戸切絵図にも描かれた瑞聖寺がいまもこの地に残っているのがみえました。
白金瑞聖寺といえば、かつて北村透谷の墓があった寺として知られるところ。
透谷の葬列が瑞聖寺へ向かう様子が島崎藤村「桜の実の熟するころ」に描かれているように、明治学院に通っていた藤村は、このあたりの情景を繰り返し描いています。(『東京の坂道』)
東京大学医科学研究所
まずは五島藩下屋敷の跡地を歩いてみましょう。
さきほどの2番口が屋敷の南西端で、北に向かうとすぐに旧伝染病研究所、現在の東京大学医科学研究所、この正門の西あたりまでが屋敷の範囲です。
研究所の構内には展示施設もありますが、訪れた2021年6月は、新型コロナの影響で立ち入ることができませんでした。
研究所正門の脇から旧公衆衛生院へ行けますが、こちらはのちほど行くことにしましょう。
五島藩白金下屋敷の北半を歩く
目黒通りに戻って、通りを北東方向の六本木方面へと進んでいきます。
およそ100mで、日吉坂にかかる少し手前、北に曲がる細道の角に着きました。
この道を入って北に進むと、まもなく左手に白金四丁目児童遊園がみえてきます。
この公園の横を通り過ぎて下り坂を進んでいくと、道が「く」字状に右に曲がる場所が見えてきました。
この曲がるあたりと公園の中間あたりからが下屋敷の跡地、さらに道なりに進むと、ちょっと広い道との丁字路になっています。
この道は江戸切絵図にも描かれた道で、五島藩下屋敷の北を区切っていました。
正門跡?
どうやら屋敷跡地は、小さな谷地形の底部分にあたっているようです。
切絵図をみると、このあたりに下屋敷の正門が設けられていたのようですが、その痕跡は残っていません。
こんどはこの道を西方向へ向かってみましょう。
ゆるやかな坂を上っていくと、左手前方には高まりがみえますが、これが東京大学医科学研究所、よくみると昭和初期の建物もちらっと見えています。
また、そのふもとは崖地形になっていますが、ここまでが下屋敷の敷地となっていました。
この崖が旧公衆衛生院の前まで続き、五島藩下屋敷の境界を今もたどることができるのです。
聖心女学院
ふりかえって、道の北側には擁壁があって、その上に大きな建物群がみえてきました。
これが聖心女学院、現在は高・中等部と初等科が置かれています。
この場所が、幕末にはすべて松平十郎麿の広大な下屋敷だったのでが、詳しくは次回にみてみましょう。
いったん戻る
来た道を少し戻って、こんどは東に進むと、行き止まりの細い道がみえてきました。
このあたりが屋敷の西端ですが、路地は住宅に囲まれてすぐに行き止まりとなっています。
もと来た道に戻って、屋敷跡地の中を回る道を歩いてみましたが、両側には戸建て住宅が並んで、かつての下屋敷をしのばせるようなものは見られません。
もと来た道をたどっておよそ100mで目黒通りに戻ってきました。
目黒通りを南西方向、上大崎方面へと進むと、スタート地点の白金台駅の2番口です。
ここから北へすこしわかりにくい通路を進むと、すぐに旧公衆衛生院の建物前に到着しました。
今回は、五島藩白金下屋敷の北半分を歩いてみました。
残念ながら屋敷のはきりとした痕跡は見つかりませんでしたが、屋敷の地勢は体感できたのではないでしょうか。
そこで次回は、旧公衆衛生院で休憩しながら五島藩下屋敷についておさらいしてみましょう。
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